野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

フィクションと現実の境のテーブルマーチ

作曲家の伊左治直さんが東京音大の講義で、ジョン・ケージの「Living Room Music」を取り上げた時に、「あいのて」第2回のビデオを見て、学生達にも大好評だった、そうです。伊左治さんの感想、嬉しかったし、そこから気づいたこともあるので、少し引用します。

「僕としては、これまで3回のなかで一番いい回じゃないかと思ってます。実際に演奏している音の質感もいいし、番組全体としても、オーバーな言い方すると、一編の映画みたいで。 (ラストシーンが素敵だった)ジャック・タチの映画もそうだし、自分の曲にもあると思うけど、作品世界(映画にしろ音楽にしろ)と日常の境界がなくなるようなエンディングって好きです。それだけに、再放送カットは残念ですね。むしろ3回目の方が「荒い」と思ったけどなぁ。マリンバは家にないからオッケーなのかなぁ。未知のものに接した時にすぐクレームする受け手も困るけど、そもそもクレームのポイントもおかしい気がしましたね。番組内でも「いつでも机を叩いて言い訳じゃない」ってフォローしてるし。子供がふざけて困る、というのはわかるけど、そこからが親子の対話なんじゃないかって思うんですけどね。」

「一編の映画みたい」というコメントうれしく思いました。一本の貫かれた番組にしたい、というこだわりで、オープニング曲もエンディング曲も、ぼくと尾引さんと片岡さんで作り、演奏しています。

で、今日の本題ですが、伊左治さんの「作品世界と日常の境界がなくなる」という部分のことです。これを読んで、そうだよなぁ、と納得しました。

「あいのて」という番組は、フィクションなのでしょうか?リアルなのでしょうか?そう考えて振り返ってみると、第2回のテーブルでは、フィクションとリアルの境界が限りなく曖昧になっています。逆に、第3回のピンポンでは、卓球、マリンバ、そして、空から降ってくる400個のピンポン球など、非常にフィクションの面が強いです。

そういう意味で、第3回は現実世界から切り離した絵空事として見れる番組ですし、第2回は、絵空事として見ていいのか現実として見ていいのか、その境界が曖昧になっている番組です。(だから、第3回は他人事として気楽に見れるし、第2回は自分の生活にも跳ねかえってくるので、賛否両論になるのかもしれません。)

さて、幼児の世界では、このフィクションと現実というのは、そもそも境界が曖昧だと思います。このことは、すごく重要です。子どもたちの耳には、日常生活の中でもあいのてさんのあいのてが聞こえてくるかもしれない。子どもたちは、テレビの中のフィクションだと割りきって理解することはないはずです。

ちなみに、4歳以下の子どもには、手品をやってもウケない、と発達心理学者の服部敬子さんが以前教えてくれました。手品の場合、現実には起こり得ないことをトリックを使って見せるのですが、子どもたちは、ハンカチが花に変わっても、それを当たり前として受け入れ、驚かないのだそうです。

尾引浩志さんは、アーティストっていうのは、妄想する人であり、妄想を現実にしていく人だ、と言っています。

教育やしつけというものは、下手をすると、子どもに空想の世界を忘れさせ、現実の世界を上書きする作業になりかねません。それは、非常に危険なことだと思います。もちろん、誰もが空想のまま生きていたら、いいことだけではなく、殺人やら、あってはならないこともたくさん起こってしまうかもしれません。だから、現実世界にルールはあります。

しかし、教育が、現実世界のルールを教えながら、空想の世界を忘れさせたり、空想の世界を消し去ることになってはいけない、とぼくは思います。空想の世界と現実の世界をどうやって共存させていくか、ということを教えることこそが、本来、教育がすべきことなのではないでしょうか。

現実社会を生きながら、自分の妄想・空想・夢を消去されずに大切にできる、そんな世界で生きていたいものです。夢は現実であり、現実は夢であり。その中でどう折り合いをつけていくか、それが生きていくということであり、ぼくの芸術活動だと思っています。

テーブルマーチは、この現実とフィクションの境界線上を進んでいく行進曲だったのですね、伊左治くん。気づかせてくれて、ありがとう。ぼくは、この行進曲に勇気づけられながら、フィクションとリアルの境界を行進(=更新+交信)していきます。



補足
(ちなみに、「芸術家」、「変人」、「オタク」、「子ども」、「知的障害者」などとレッテルを貼られた人以外は、この妄想の部分をリアルに生きることが容易には許されない社会に生きていることに気づきます。さらに、その芸術をツールとして、社会のルールの方に適応させることにより、芸術の市民権を得ようとする動きもありますが、それも、妄想を消去していく作業に限りなく近いのです。多くの芸術療法やアートワークショップが、陥っている現象です。そうではなく、こうした空想の世界の市民権をきちんと得られる社会を作っていくことこそが、アートマネジメントだと、ぼくは考えますし、期待しています。)

補足2
このフィクションとリアルの間で、民族音楽学者の中川真さんは、ノンフィクションと小説の境界線上の表現を模索しています。バリ人にとっての音というものを追求していく結果、マリー・シェイファー的なアプローチからどんどん遠ざかり、彼は音の物語を書くことになります。そこには、客観的な研究者のアプローチとは程遠い、主観や実感があります。この境界のおりあいをきちんとつける道を開拓する人こそ、真の研究者だと、ぼくは思います。