野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

閃きは物忘れである

昨年の暮れにヒュー・ナンキヴェルと濃密な時間を過ごしてから、10ヶ月が経つ。2019年は1月に日本で一緒にワークショップをし、3月にはイギリスで彼のコンサートに出演もし、9月には、イギリスで彼とワークショップをし、11月−12月にかけて日本でワークショップをした。1年間に4度も会った。ところが、昨年の12月、ヒューはこれが日本に来るのが最後かも、と言った。もう飛行機に乗ることはないかもしれない、と言った。飛行機がCO2の増加に寄与するし、地球温暖化にも関係するし、もう飛行機に乗らないけれども、ぼくたちは友人だ、と言った。まるで、コロナを予言しているかのような発言を聞いて、ぼくは、またヒューに日本に来て欲しいのに、と思った。

 

ヒューの音楽が好きだが、彼の生き方や考え方も大好きだ。彼は、決して雄弁ではない子どもの声を聞き、そのメッセージを歌にする。歌自体も素晴らしいが、歌ができていくプロセス自体が美しい。どの歌にも、その歌が作られていった背景の物語がある。その物語も含めて記録したり、公開していくようなやり方を見つけたいと思う。

 

そんなやり方を探している中、何十年と時間は過ぎていく。ぼくの体験や感じたことを自分の感覚を通して伝えていく方法を探していきたく、模索する人生が続いている。そのために文章を書けるようになりたい、と思って、苦手な文章に取り組むべく、毎日、ブログに日記を書いてきた。殴り書きのように毎日書いている日記を、編集し構成し、違った形にするためのメモとしての日記。自分の不完全な日記でも、公開することが、少しでも何かに繋がるのでは、と思って、書き続けているが、一向に文章は上達しないし、なかなか良い方法を見つけるに至らない。

 

何を書いているかというと、ぼくが体験してきた世界は、ぼくが拙い言葉で書いている日記に比べたら、遥かに面白く、遥かに美しく、遥かに驚きに満ちていて、その素晴らしさや面白さを共感したい、と思うのだが、実は、自分が感動していることは、些細なゴミのように扱われて、なかなか人々の目や耳に止まらない。

 

例えば、1999年、老人ホームのお年寄りである春子さんが、鉄琴のマレットで鍵盤を叩くのではなく、マレットを黒鍵と黒鍵の間の隙間に持っていった時、ぼくが心底参りましたと恐れいった。世界が反転する体験だった。そんな世界のひっくりかえる体験に、何度も出会えているのに、そのことを体現できていない自分に腹立たしくなる。野村誠よ、何をやっているのだ!

 

例えば、ピアノの響きに命がけで向き合い続けているピアノ狂人の調律師がいる。あらゆる調律の裏技を駆使した上で、「もう、わしにできることはない。あとは気持ちだ。いい音になってくれ」と念を込めて調律している上野さん。彼の異常なピアノへの情熱や愛情がなかったら、ぼくはピアノを弾くことなど、大昔にやめていたかもしれない。

 

ぼくは、作曲が上手にできない。上手にできない。ずっと、そんな気持ちで作曲をし続けてきた。上手にできないから、なんとか上達したいし、作曲に対する憧れもあって、独学でずっと勉強してきた。かれこれ40年以上も作曲し続けてきているが、まだまだ不自由で、不自由だから一生作曲していくのだろうと思う。

 

身体はもっと不自由だが、下手なピアノも、少しでも上達したいと思い、練習してみたりする。四股も毎朝1000回踏んでいる。体のバランス感覚が、少しずつ変化しているような気もするし、何も変わっていないような気もするが、気長にやっている。と同時に、変化とか効果などというセコイことを言わずに、ただただ、今、四股を踏むことそのものを楽しんでいる。変化や成果なんて期待していないんだ。今が楽しい。ピアノの練習そのものが楽しい。弾けないところを練習するのも、楽しい。弾けないところが、いつまでたっても弾けないのも楽しい。不揃いな演奏も、不本意でもあるが、それなりに味わいもある。

 

Nick Luscombeと打ち合わせをした。彼が関わっている東京大学のMemu Earth Labの話。北海道の芽武という土地に、隈研吾の実験的な建築が立ち、それがMemu Earth Hotelとして、実験的なホテルになっている。大自然、ロケット開発、アイヌのコミュニティ。

 

東大、学問、アート、、、、、、。昨年、東大の学園祭でシンポジウムに登壇したことを思い出す。モデレーターの円光くんは、アートと学問を別物として対置することへの違和感を感じていた。

 

音楽は相撲であり、相撲は演劇であり、演劇は建築であり、建築は暮らしであり、暮らしは人々であり、人々は歴史であり、歴史は物語であり、物語は歌である。

 

学問はアートであり、アートは人工であり、人工は科学であり、科学はフィクションであり、フィクションは創作であり、創作はきっかけであり、きっかけはプロセスであり、プロセスは永遠であり、永遠は一瞬であり、一瞬は閃きであり、閃きは経験であり、経験は物忘れである。

 

と、ここまで書いて思い出した。そうだ。なんで、ヒューの話を書き始めたか、思い出した。ヒューが一年前に我が家に置いていった本のことを書くつもりだったのだ。

 

「Science Delusion」という本。科学という妄想とでも訳したらいいのだろうか。分子生物学者が、科学が如何に盲信的かを書いた本で、今まで一度もページを開かなかったのだが、面白くて、少しずつ読んでいる。世界が、物理法則によって成り立っている、という大原則も、勝手にそうと信じているだけで、その根拠は何もない。そうした言葉を読んでいて、そのことからブログを書き始めようと思ったのに、いつの間にか大脱線をして、今、ようやく、そこに戻ってきたのだった。

 

ぼくは、未知の領域に飛び込むことは好きだ。ニックさんとの打ち合わせを経て、また、空想を膨らませた。こんなにまだるっこしく、グルグルまわり道する日記もある。

雨が降っている。