野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

一緒にいるだけでいい


朝、ピアノの雑誌「ショパン」が届く。「即興演奏ってどうやるの」の書評が1ページ使って、ゆったり掲載されている。文章を書いているのは、音楽療法士の岡崎香奈さん。ぼくと片岡さんのことを、「私が心から敬愛するふたりの音楽人」と書いてくれた上で、「音楽人」と書いた理由を、「彼らが生きている在りようそのものが『音楽』」と説明してくれた。つまり、言い換えれば、ぼくや片岡さんは音楽を使うのではなく、ぼくら自身が音楽そのものだ、と言っているわけだ。さらに、読者に対しては、「このふたりの音楽人から感じとられる『音楽空間』を心身でしっかり受け止め、読者各々が特有の音楽的自己アイデンティティを創り出していく糧として、この本を活用」するように、提案している。これも、言い換えれば、読者自身も、この本のネタを使うのではなく、この本を通して、読者自身が音楽そのものになってしまって欲しい、と岡崎さんは言いたいのだ。

この本は、一見すると使いやすいネタ本の形態をとっている。それは、実際に音楽療法士と言われる人は、ネタ本を欲しがっているらしい、という現状を踏まえて、できるだけ読者層にとってハードルの低い読みやすい本にしよう、と思ったからだ。こうやって、クライアント(=この場合は読者)の状態に寄り添うことから始めて、別の状態に誘導することを、音楽療法では「同質の原理」と呼ぶらしく、ぼくもその方法に倣ってみた。で、こうした同質からスタートして、最終的には、読者にとって異質な状態に読者自身が自由に展開できるような様々な仕掛けを、時に露骨に、時にこっそりと、この本には仕掛けたつもりだ。そうした、仕掛けを岡崎さんは理解したんだなぁ、と思う。

さて、同じく「教育音楽小学版」にも、1ページで書評が出た。こちらは、山形市立鈴川小学校教諭の東海林恵里子さんによる実践レポートである。なんと、「なんちゃって音楽」を35種類全部小学生に聞かせて、子どもたちに感想を書いてもらったという。普通、学校の音楽鑑賞では、もっと長い曲を聞くだろうけど、約10〜20秒のなんちゃって音楽35曲を鑑賞するなんて、子どももびっくりしただろう。子どもたちの生の声も載っていて、嬉しくなった。

郵便物をチェック後、今日も、京都女子大学へ。今日は、ポチと卒論の続き。1時半〜6時半、約5時間も研究室にいたのに、全然ピアノを弾かずに、卒論のことばっかりやってた。意外だけど、途中で気分転換に遊ばない野村も、たまにはいいか。今日やっていたのは、彼女たちのやった実践の分析と考察。「ボディパーカッション」で、カラダを叩いて音を出す、という側面に、別の要素を加えると、急に自由な表現を誘発した、という実例がいくつも見つかった。例えば、「海」というテーマで曲を作ってもらったら、クロールする仕草で手をうち鳴らす奏法が発明された。これは、単にカラダで音を出そうでは、思いつかない内容だ。また、別の実践では、「決め台詞」を導入することから、発想が広がっていた。「決め台詞」として、「キライ!」を決めたグループが、「すきすき、きらいきらい」という5拍子のビートを思いつき、この言葉にのせてカラダでリズムをとった。単にカラダでリズムだったら、5拍子にはならなかったろう。

彼女たちの実践で、多様な表現が出てきていた。でも、
「それを、どう拾い上げて発展させるかが、難しいんですよ。」
というのが、今後の課題。でも、これで、論文の骨組みは見えた。

第1章が、えみちゃん担当の「ボディパーカッション」について、主に山田俊之氏の実践を取り上げ、そこでの問題点を浮き彫りにする。

第2章が、自分たちの行った4つの実践。ここでは、ボデイパーカッションによる創作活動がメインになっている。

第3章が、ポチ担当の4実践の分析、考察。題材設定、プログラムの組み方、時間構成、距離感など、自分達の実践を分析し、どのような状況にすれば、自由な表現創作活動が促進されるのかについて。しかし、課題として、その場で出てきた表現を拾い上げて、柔軟に対応して発展させることの必要性があげられる。

第4章が、みどりちゃん担当の「野村誠」の実践の分析。野村誠が行っているその場で出てきた表現を拾い上げ発展させることを、言語化してしまう試み。これができちゃえば、野村じゃなくても、誰でもできるはず。

で、もう一人のしおちゃんの担当がまだ見えないなぁ。ま、明日会うし、会って考えるか。

というわけで、5時間遊びなしの卒論指導の後は、ごはん食べに行こうってことになった。
「卒論指導って、こんなにガッツリやってたんですか?大変じゃない?」
とポチ。確かにガッツリやってたかも。だって、やり始めると面白いんだもん。昨年の自分の学生の卒論を眺めて、レベルの高さに驚く。だって、すごくオリジナルで、読者に訴えかけてくる論文だったのだ。やるなぁ!

それから、ポチと京都駅でうどん屋さんに入って、デザートまで楽しんで、混み合ってる店内で、おしぼりであひるを作って遊んだ迷惑なお客さんをやった後、クリスマスツリーを眺めて、存分楽しくなって、今日はココまで。今日は、8時間、ポチと一緒にいたんだ。5時間卒論、3時間遊び。

と家に帰って来たら、東京芸大大学院生から電話。音楽療法を勉強してる彼女は、強制されることがキライな子どもがいて、その子に無理にピアノをやらせても興味を示さない。面白い音のするものとかには、自分から積極的に取り組むけど、どうしたらいいだろう?というようなことを言った。

ぼくは、どうにも答えようがなくって、
「最近、ぼくは、学生と話していて気づいたんだけど、ぼくはね、何も教えようとしていなかったんだ。ぼくはね、学生と一緒にいれば、それでよかったの。だって、学生のことが大好きだったから。ただ、それでいいんだ。」
というココ数日、毎日のように話している話をした。
「その子と一緒にいて幸せ?」
「幸せです。」
「で、その子もそうでしょ?きっと。だったら、一緒にいればいいんだよ。それで幸せなんだから。な〜んにも教えなくってもいいんだよ。」
と、ぼくは言った。もちろん、一緒にいるだけでも、きっと何か一緒に音楽をするだろうし、彼女はピアノを弾くかもしれないし、弾かないかもしれない。ピアノの足に興味を持って、ピアノの足に飾り付けをするところから、ピアノが好きになるかもしれない。ピアノはキライだけど、タイコがすごく好きになるかもしれない。でも、せっかく一緒にいて幸せな場があるのだから、一緒にいて幸せなことを、最優先すべきだ、とぼくは思う。教えたっていいし、教えられなくたっていいんだ。

「野村さん自身が音楽なんですよ。だから、野村さんと一緒にいるだけで、色んなことが体験できたり感じられたりするんですよ。だから、野村さんと一緒にいると、それは、もうそれだけで、音楽してるってことなんですよ。だって、野村さんが音楽なんだから。」

この言葉が、今朝読んだ岡崎さんの書評と繋がった。だから、ぼくは一緒にいればいいんだ。いや、ぼくだけじゃなくって、みんな一緒にいればいいんだ。そして、一緒にいて幸せな場から何かが始まるの。

みんな一緒にいればいいんだ。
来年4月に初演される御喜美江さんのためのアコーディオンソロ曲は、「誰といますか?」。