野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

石橋鼓太郎博士論文発表会

今朝は、東京藝術大学大学院の博士課程在籍の石橋鼓太郎くんの博士論文の発表会があり、ぼくもリモートでゲストコメンテーターとして参加した。誰かの博士論文の中で、ぼくの活動に触れられたケースは、今までにも経験があるが(例えば、カナダのFiona Evisonが2019年にWilfrid Laurier大学に提出した博士論文From Art Music to Heart Music ーThe Role of the Composer in Community Music) 、今日のコタローくんの論文『制約を創造に変えるアートマネジメント ー〈野村誠千住だじゃれ音楽祭〉のエスノグラフィー』は、丸ごと全部がぼくの関係する活動に関するもの。自分自身について研究される貴重な機会な上に、それにコメントする機会にもなった。

ga.geidai.ac.jp

 

さて、改めて論文を読み、発表を聞いて、当たり前のように楽しく味わった。しかし、今になって思い返すと、トンデモナイ。というのも、この論文は非常にハイブリッドであり複合的であったからだ。野村誠にフォーカスを当てた作曲家研究であれば、それは音楽学になる。実際、この論文の第2章だけを読めば、野村誠という作曲家に焦点を当てた音楽学の論文に見える。しかし、野村誠という作曲家は厄介で、作品だけを論じるだけでは作曲家野村誠の半分を読み解いたことにしかならず、創作プロセスについても研究する必要がある。この論文は、作品と創作プロセスの双方を照らし合わせながら、その関係について論じた作曲家論のように見える。

 

しかし、第3章になると、文化人類学社会学の論文のようになる。エスノグラフィーという副題がついている醍醐味はここにある。「だじゃれ音楽研究会」という一つのコミュニティに長期間参与観察することから浮き彫りになる人間関係や社会構造を炙りだす。インドネシア国立芸大の作曲家を卒業したGardika Gigih Pradiptaが、ガジャマダ大学の人類学に進学し、作曲家のMemet Chairul Slametが率いるエスニック音楽アンサンブルGangsadewaの創作プロセスに参与観察して修士論文を書き上げたことともリンクする。

 

さらに、第4章になると、文化政策やアートマネジメントの論文になる。この企画の共催である足立区のシティプロモーション課、アーティスト、音まち事務局、プロデューサーの間で実際に起こったやりとりを具体的にあげながら、行政の求める分かりやすさと、アーティストが目指す創造性の間で、いかなる調整が行われたか、について論じたものだ。

 

こうやって書くと、全く関係ない3つの論文が一つになっているように聞こえる。しかし、この3つの領域の全てのことが密接に絡み合っているのが、〈野村誠 千住だじゃれ音楽祭〉である、というのが、石橋くんの主張であり、その全てを網羅しようとしたのが、この論文なのだ。

 

そして、それぞれを見ていくと、第2章では、作曲家の野村誠にとっては、「結果(作品) or プロセス」という二項対立は存在せず、「結果(作品)⇄プロセス」は相互連間し表裏一体で不可分である、と説く。

 

第3章では、だじゃれ音楽研究会に参加するメンバーにとって、「個 or 集団」という二項対立は存在せず、「個 ⇄集団」という各自が集団の同一化から逸脱できないホモフォニックな集団ではなく、個性的が個の集合体であり、各自が逸脱を可能とする緩やかにつながるポリフォニックな集団が、だじゃれ音楽研究会である、と説く。

 

第4章では、石橋くん自身や音まち事務局、さらには足立区といった本プロジェクトのアーツマネージャーにとって、「制度 or 創造性」という二項対立ではなく、「制度⇄創造性」という表裏一体になるマネジメントの試行錯誤が語られる。

 

コタローくんという非常に奥ゆかしく控え目な物言いの人物による論文なので、挑発的な文言はない。しかし、この音楽学的視点と、文化人類学社会学的な視点と、文化制作的な視点という複眼的な視点から、多角的に総合的にアートのあり方を問う論文である。そこには、作品とプロセスを二分しない芸術と、個を集団に従属させない社会と、社会貢献と創造性を両立させる制度を、統合的に発想しない限り、アートマネジメントの未来は見えてこない、という明確なパースペクティブが感じられる。そして、だじゃれが関係ないものを繋ぐように、無縁であると思えた音楽学社会学文化政策が、密接に絡み合っていることを、浮き彫りにした。

 

こうやって論文と発表を見た時に、第2章、第3章の登場人物たちとの交流(参与観察)は彼の学部時代を含めた9年間の経験に基づくもので、それに比べれば、第4章の登場人物に関する記述は、圧倒的に少ないし、彼の調査の一番の中心は第3章にあると思う。しかし、「制度を創造に変えるアートマネジメント」をさらに押し進めるためには、第4章の登場人物たちの個性が第3章に匹敵するほどに輝き、逸脱を起こすことが必要になるのだ、と痛感した。足立区職員や音まちスタッフのためのワークショップのようなことも、今後、生まれていってもいいのかもしれない、と感じた。

 

それにしても、第3章でイキイキと語られた登場人物たちは、だじゃれ音楽研究会の中からピックアップされた4人であって、これ以外にも、本当に多様なメンバーがいる。誰もが分かりやすく個性的だったり、逸脱するわけではなく、一見それほど個性的に見えないとか、分かりやすく逸脱するわけでない人も、もちろんたくさんいて、そうした人々の集合体が「だじゃれ音楽研究会」である。行政が「市民に向けた」とか「一般の市民」などという言葉を使いながらイメージする「市民」とか「社会」は、だじゃれ音楽研究会のようなものなのでは、と思う。だじゃれ音楽研究会は、有志の集まりだが、これは、一つの音楽実験であると同時に、社会実験でもあるのかもしれない。ここで何が成立し何が成立しないかを試し、それを「だじゃれ音楽研究会」というコミュニティの外で(例えば「千住の1010人」で)実践する。そうして見出される方法は、社会の様々な場に適用/応用できる可能性があり、こうした方法に、「だじゃれ音楽研究会」以外の人がアクセスできるようにすることも、マネジメントの大きな課題である。先月、隅田公園で行った野外でのオープンワークショップなどは、その好例のように思えた。

 

と、長々と書いたが、今日の発表と博士論文の完成を経て、分かりにくいアートプロジェクト「千住だじゃれ音楽祭」は、また次のフェーズに入るに違いない。そして、論文の中で何度となく触れられた「無茶ぶり」と、それを可能にする「信頼関係」を、今後とも大切にしていきたい。