野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

オリヴィエ・メシアンの教室 作曲家は何を教え、弟子たちは何を学んだのか

ジャン・ボワヴァン著(平野貴俊訳)「オリヴィエ・メシアンの教室 作曲家は何を教え、弟子たちは何を学んだのか」(アルテスパブリッシング)を、読了。ちょうど、1月にメシアンを演奏するし、翻訳が出たから購入したが、読み進めると面白く、一気に読んでしまった。数多くのインタビューをもとにした著者の博士論文が元になっていて、ぼくにとってはフルクサスガムランとの関わりで知っているフィリップ・コーナーなんかもメシアンの弟子で、コーナーがメシアンのおかげでラモーの音楽と出会ったみたいな意外な内容も含めて、面白く読んだ。翻訳が素晴らしく、非常に読みやすく、訳者がこの本の内容や音楽そのものを非常に理解しているから、意味がすっと入ってくるし、さらには、訳者による注釈も非常に充実。本文だけで500ページ以上あり、付録や資料なども含めると本当に膨大だが、一読の価値あり。

 

で、ぼくはメシアンの授業を受けたことがないけれども、この本を読んでみて、ぼくは、この授業を知っているなぁ、と思った。中学時代に、メシアンとクロード・サミュエルの対談を買って、何度も何度も読んでいたし、高校時代に、京都賞を授業したメシアンを特集したNHKの番組でのインタビューを録画して、何度も何度も見たし、大学時代には、メシアンの著書「わが音楽語法の技法」と「和声の20のレッスン」を熟読して勉強した。そして、13世紀のインドのリズム理論やギリシアの韻律やモーツァルトのリズムなどを、本当に自分勝手に解釈して、ほとんど誤読と言ってもいいくらいのズレた解釈ができるメシアンに感銘を受けた。それこそが個性だと思った。同じ頃に、柄谷行人の「日本近代文学の起源」という本を読み、夏目漱石が絶対に考えてもいないような深読みの分析をしている柄谷行人の視点に面白いと思い、作者の意図がどうであろうと、そんな読み方ができるのか、と思うようになった。ぼくは、メシアン柄谷行人の影響を受けて、あらゆる音楽を自分なりに分析/解釈して、それを創作の源にできないか、と考えた。すると、現代音楽だろうが、ジャズだろうが、演歌だろうが、子どもの鼻歌だろうが、作者が意図していないかもしれないが、ぼくなりの誤読/深読みで解釈できることに気づき、そう聞くことで、新たな音楽が創作できることに気づいた。それは、ポストモダンでサンプリングやコラージュが盛んだった1990年代に、ぼくは、ただ表面をサンプリングするのではなく、その奥に隠れている何かを発掘して、創作の糧にすることになった。そうしたきっかけをくれたのは、メシアンだった。そして、そのメシアンの態度を、今回、改めて、「オリヴィエ・メシアンの教室」で読んでみて、やっぱりそうだったんだ、と自分の原点を再確認する作業にもなった。自分的には、ぼくは勝手にメシアンの弟子だと思ってるなぁ。

 

ということで、野村が2018年に作曲した「オリヴィエ・メシアンに注ぐ20のまなざし」は、メシアンが他の作曲家をメシアン眼鏡で分析していくように、野村の色眼鏡を通してメシアンを解釈するとこうですよ、という曲集だ。野村が考えるメシアンの魅力を表現した音楽で、メシアンにとってはいい迷惑かもしれない。でも、他人の音楽を散々、メシアン目線で分析し続けたメシアンに、野村目線で作曲したのは、面白かったなぁ。

 

「世界のしょうない音楽祭」に向けて、作曲を開始。とりあえず、今日は第1回のワークショップを踏まえて、日本をテーマにしたところを作曲。この日は、箏の調弦に合わせて作曲したけれども、平調子(ソ、ラ、シ♭、レ、ミ♭)じゃなくって雲井調子(ソ、ラ♭、ド、レ、ミ♭)だったんだなぁ、と今頃気づく。

 

里村さんと大掃除を開始。いろいろ、クリスマスソングをピアノで弾いたりしているうちに、山下達郎を研究していたり、クリスマスと言えばメシアンか、とメシアンを研究したり。そして、野村誠作曲「オルガンスープ」を聴いてみたり。15年前に作曲した曲だけど、大好きだ。メリークリスマス!