野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

高山明の演劇 東日本大震災から8年の日

町は劇場だ。劇場は町だ。どこでもが劇場だ。演劇空間は、どこにでもある。20年前、老人ホームで共同作曲を始めた頃、そこでのお年寄りたちの会話があまりにも絶妙で、どんな現代演劇を観に行くよりも面白く、仰天した。

 

今日は、Shibaura Houseという所で、報告会という名の演劇を観に行った。「新・東京修学旅行プロジェクト:福島編」の報告会。主催が Port B、企画・構成が高山明で、出演が9名の高校生、レクチャーパフォーマンスが佐藤朋子。

 

東京と福島の高校生との東京観光の報告。高校生を集めて、オリンピックや放射能や戦争や差別やレッテルなど、いろいろな仕掛けをした張本人が現れる。名前を名乗らないが、高山さんの役をやっている俳優だろうか?それとも、高山さん自身であろうか?それは、語られない。文脈から、高山さんご自身であろうと判断する。

 

高山さんは、自分の仕掛けの生み出した気まずさの中で、気まずい、気まずい、居心地が悪い、と連呼し、一人もがき苦しむ。その苦しむ高山さんは、時にはマイクを使わずに話し、観客には聞こえたり聞こえなかったりする。高校生は、常にマイクを使って発言する。それを、入場料をとって、報告会として鑑賞する、という演劇。

 

もし、この会をスムーズに進行させたければ、ファシリテーターを置けば良い。高校生と高山さんをつなぐつなぎ手を設置すれば良い。しかし、そんなことをすることで、気まずさを隠蔽することだけは、絶対にしたくない、と高山さんは思っているだろう。だから、高山さんは、ずっと「気まずい」、「居心地が悪い」という言葉を言い続けながら、その場に居続け、自らがもがき苦しむ姿を観客に見せる。それが、どれくらい自覚的にやっているのかは不明だが、おそらく、それが彼の手法であり魅力なのだろう。ぼくは、高山明の演劇を他に知らないから、あくまで今日の印象だけで語る。今日の演劇を見る限り、「いかにファシリテートしないか」、それこそが高山明の演劇の本質で、「気まずさ」こそが、演劇である、と信じているに違いない。そして、この「気まずさ」に蓋をして日常を送っている人々に、「気まずさ」を提供すること、それは彼の使命に違いない。

 

というわけで、東日本大震災から8年目の日、気まずい演劇を味わった前後に、JACSHA(日本相撲聞芸術作曲家協議会)の里村真理さん、樅山智子さんとミーティングをした。東日本大震災の起きた8年前の3月、大相撲が不祥事があって、大阪場所を開催しなかった。大相撲は興行だが、大地を鎮める儀式でもあると思っていたので、何か大変なことが起きるのではないか、と心配していた。単なる偶然の一致かもしれないが、大震災が起こった。それから、気がつくと、ぼくは四股を踏むようになった。町も劇場であり、劇場が町であるように、町は土俵であり、土俵は町であるだろう。辻相撲もあれば、村相撲もあれば、神事相撲もある。新幹線を待つうプラットフォームで200回四股を踏んでから、びゅーーんと京都に戻り、8年目という日が終わった。震災で亡くなられた方々のご冥福を祈り、生き残っているぼくたちが、四股錯誤してきた2010年代も間もなく終わろうとしている。東京オリンピック開催後の2020年代を、ぼくたちはどのように四股錯誤するのか。とりあえず、どんな2029年を迎えたいのかを考え、自分の生き方を見つめ直したい。合掌。