野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

自立とは何か?介助とは何か?

2日前に続いて、佐久間新の監修のダンス公演「だんだんたんぼに夜明かしカエル」のリハーサル。奈良のたんぽぽの家に行く。

 

今日の通し稽古は、佐久間さんが全編通して全く踊らずに、行った。もちろん、本番では、佐久間さんも出演する。佐久間さんは素晴らしいダンサーであるのみならず、素晴らしいファシリテーターでもある。だから、佐久間さんと一緒に踊ることは安心感があるし、佐久間さんがいない状態で踊ることは、大きな不安をもたらす。それは、車椅子に乗っている人が、車椅子を手放し立ち上がる緊張感のような不安定な状態、手厚い介助を受けていた人が、急に介助者なしで行動することを強いられることにも近いかもしれない。

 

佐久間さんというサポートを失ったキャストの面々は、突如、自立を促された。そのことを体感するパフォーマーたちは、今までの稽古で見たこともないほど、必死にもがいた。必死に演じた。必死に動いた。今まで彼ら/彼女らが、いかに佐久間さんに支えられてきたか、いかに佐久間さんに依存していたか、いかに佐久間さんを頼っていたか、を痛感したに違いない。それでも、佐久間さん不在の状態で、80分の舞台をやり切らねばならない。そうした覚悟を持って、各自が頑張っている。一人ひとりが、今までの稽古の中で最も輝いて見える瞬間がいっぱいあった。

 

そして、佐久間さんが不在である今日の通し稽古では、キャストの一人の山口広子さんが、主役の座をかっさらったように、ぼくには見えた。もがきながらの山口さんの切実な表現が、説得力を持ち、全編通して、山口さんの物語を舞台化したかのようになった。ある種、佐久間さんが監修している作品を、山口さんが乗っ取ったように感じられたのだ。だから、今日、ぼくの音楽は、前回までと全然違うテイストで、不協和音になるし、無調になるし、山口さんの思いに応える音楽が湧き出てきた。同じシーンが、全然違うシーンに見えてくる。

 

これまでは、佐久間さんの世界観を表現しようとしていたキャストたちが、この舞台作品の中で生き、自分自身の世界観を表現しようと立ち上がる。今日は、山口さんの物語になった。他の出演者もチャンスをねらってくるに違いない。佐久間作品は、山口作品となり、水田作品となり、中川作品となり、古川作品となり、となっていくはずだ。「共創の舞踊劇」と冠すると、絵空事で綺麗事なんじゃないか、と疑いの眼差しで見たくなる。共創の舞台なんて、そんな簡単なことじゃない。共同責任は無責任になりかねない。でも、佐久間さんという支えを手放した瞬間、全員が無我夢中にやらないと、舞台は瞬時に崩壊する。構成が全て決まっているのに、即興よりもスリリングで即興的だった。

 

自立とは何か?

介助とは何か?

介護とは何か?

自立支援とは何か?

 

障害があるから手厚く介助を受ける権利もある。手厚くサポートされて舞台に立つことで、表現の場を獲得するのも一つ。でも、サポートを最小限に切り詰めて、極力自分の力で自分の意思で表現するんだ、という強い意気込みを汲んで尊重するのも、サポートのあり方であったりする。この辺りの加減は本当に難しいし、それは今回の舞台でも大きな鍵になるかもしれない。

 

リハーサル後に、何をやっても野村さんのピアノがあれば大丈夫だ、という意味のことを、山口さんが言っていた。でも、次回のリハーサル、野村は欠席する。さあ、今度は野村の音楽という支えを手放しての通し稽古だ。その試練も越えて、また一回り強くなるんだ。その次は、そこに力一杯に野村の音楽ぶつけるからね!

 

というのが、今日のリハーサル。終わった後も、例によって、みんなが演出家になって、どんどん本音トークの場になってくる。エゴが出てくる。結論は出ないけれども、方向は見えてくる。帰りの車の中で、舞台美術の池上恵一さんと2時間喋っても、まだ作品のことを喋り足りず、晩ご飯を食べながら喋っても、まだ足りず、チャイを飲んで喋っても、まだまだ続くよ、どこまでも。全員が演出家になって、全員が作者になって、全員が作品づくりを始めている。今日の帰り際に佐久間さんが言ったことは、こんなこと。

 

打率は3割なんて、大したものだ。1割でも凄い。全部、空振りでもいい。だから、目一杯、空振りするつもりで、思い切り振るんだ。

 

なるほど、ぼくらは見送りしている場合じゃない。ホームランなんて簡単に打てないって分かっている。でも、見送りし続けては、絶対にホームランは打てない。だったら、全力でバットを振るしかないじゃないか。長嶋茂雄が4打席連続三振したように、当てに行かずに、全力でホームランを狙いにいくこと。佐久間監督のサインは、「送りバント」でもなく、「待て」でもなく、「エンドラン」でもなく、「空振りしていいからホームランを狙え」だ。だったら、佐久間新の期待に応えて、全力でバットを振ろうじゃないか。

 

だから、2月17日のジーベックホールでの公演では、我々は(少なくともぼくは)確実にヒットを狙う、なんていう安全なパフォーマンスはしないだろう。三振するかもしれないけれども、ホームランを狙う。当てにいかないように、気持ちを強く持とう。佐久間新の思いに精一杯応えてやろうと思う。