野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

宇宙人の友達はカミングアウトするだろうか

オーケストラは保守的な組織だと思っていたし、オーケストラは閉じた組織だと思っていたし、オーケストラは排他的な組織だと思っていた。少なくとも、5年前には、そういう意味で、なかなか限界のある組織に見えた。実際、オーケストラのコンサートのプログラムは、保守的なものが大半だし、ポスターやチラシも保守的で30年前と同じようなデザインだ。オーケストラに関係ない部外者がひょいひょいコラボしましょうと話を持ちかけても、門前払いされそうな空気を感じるし、指揮者のほとんどが男性で、楽譜が読めないと関わることも難しい。つまり、作曲家のぼくでさえ、オーケストラは自分に無関係な団体かな、と無意識に思わせられる組織だった。

 

だから、5年前に、ぼくがオーケストラと仕事を始める時は、覚悟がいった。ぼくがそれまでに行ってきた音楽活動のように、柔軟に新しいことにチャレンジできる場を、オーケストラと共有できるだろうか。拒絶されるんじゃないか。また、受け容れられるように歩みよっても、媚びるだけで、自分の創造活動として満足できる音楽活動にならないのではないか。そうした不安は、相当あった。少なくとも、それくらいには、オーケストラは難しい組織に見えたし、それくらいにオーケストラは融通がきかない組織だと思っていた。

 

今度の3月で、日本センチュリー交響楽団のコミュニティ・プログラム・ディレクターに就任して5年になる。この5年で、ぼくのオーケストラに対する見方は、根底から変わった。また、クラシック音楽のコンサートを本業とする日本センチュリー交響楽団の音楽家たちが、即興演奏、ワークショップ、新作初演、などなど、ぼくの先入観を大きく取り除いてくれるほど、多様な音楽活動に取り組み成果をあげた。

 

今朝のワークショップは、その最たるものだった。そもそも、遅刻してはいけないのだが、ぼくは、遅刻してしまった。5年前だったら、野村が遅刻したら、混乱が生じただろう。今朝は、遅刻したものの、野村なしで、いい感じに始まっているだろう、という信頼はありながらも、心配と申し訳ない気持ちで、会場に駆けつけた。そこでは、本当に自然に、オーケストラの音楽家とワークショップの参加者が、即興で音楽をしていた。しかも、即興で音楽をしているオーケストラの演奏家たちが、肩に力が入っていない。無理をしていないで、自然に即興演奏を楽しんでいた。野村が遅刻してはいけないが、でも、遅刻しても大丈夫な状況が生み出せたこと。これは、この5年間に日本センチュリー交響楽団が培ってきた本当に大きなことで、凄いことだな、と思った。

 

続いて、清滝団地の住民で88歳の方が、ハーモニカの演奏を披露してくれた。オーケストラの楽団員がアウトリーチにやって来て、自分たちのレパートリーを披露しないのに、住民が演奏を聴かせてくれる。続いて、別の住民の方が河内音頭の踊り方を教えてくれる。オーケストラの楽団員がクラシック音楽の指導をするのではなく、住民の方から教わる。こんな風に自然にその場にいて、自然に教えてもらうことは、簡単そうでいてなかなかできることではない。これも5年の成果。さらには、住民の方々と以前のワークショップで作った歌を歌う時、自然にヴァイオリンやヴィオラ、ホルンやバストロンボーンで伴奏をする。楽譜を用意しなくても、アドリブで、それぞれが判断して演奏する、なんてことも、自然に抵抗なくできる。

 

そんな風に時間を過ごしたら、楽器の名前を教えてください、と言われて、最後に、オーケストラの楽器の説明して、ちょっと演奏を披露した。自然とコミュニケーションが進んで、楽器に興味が出て、そして聴いてもらう。生活の身近なところに、こんな風にオーケストラが自然に存在してくれる。オーケストラは保守的な組織でもないし、オーケストラは閉じた組織でもないし、オーケストラは排他的な組織でもない。少なくとも、日本センチュリー交響楽団は、とてもオープンなオーケストラになっている。そのことが実感できて、嬉しい。

 

午後は、アートエリアB1に移動し、九州大学ソーシャルアートラボのトークイベント「アートと社会包摂 ソーシャルアートってどんなもの?」を(途中から)聞きにいく。中西美穂、ほんまなほ、中村美亜、長津結一郎という自分の人生の中で、いろいろな場面で交わった友人たちが登壇者。「社会包摂」という言葉は、乱暴に言えば、「なんでもあり、なんでもOKのアートと社会」をどこまでどんな風に実現するか、という難題。差別や排除の反対は、基本は「なんでもあり」だったり、「なんでもOK」だったりする。この「なんでもあり」は、意外に世の中で受け入れられないし、それを紛争や喧嘩や対立が起きないように実現するのは、簡単ではない。そして、馴染みのない価値観、馴染みのない見方、馴染みのない美意識を、「なんでもあり」と受け入れらることは難しい。実際、もし、明日、急に見たこともない形状の宇宙人がやって来たとして、その宇宙人を差別せずに、平然と受け入れることができるか、と思ったら、ぼくだって最初は難しいと思う。未知の生物に警戒するし、対話ができるまでの障壁も数多くある。宇宙人は地球を侵略に来たのかもしれないし、話せばわかる相手かもしれないが、信用して宇宙の果てに拉致されて連れて行かれるかもしれない。また、ぼくの友人の中に、実は宇宙人が混ざっているかもしれないが、彼は宇宙人であることを隠しているだけかもしれない。そして、そこで話している相手が全員地球人である、という仮定で話すだけで、宇宙人の彼は傷つくかもしれない。こんな風に、無自覚に宇宙人の存在を排除して、傷つけているのかもしれない。でも、宇宙人の彼は、カミングアウトしたら、ぼくと今まで通りの友人関係が築けないのでは、と恐れ悩んで、そのことを言えないのかもしれない。でも、出身地は、と質問された時に、本当のことを言いたいのかもしれない。でも、そこを想像するのは、宇宙人の知り合いが一人もいない現状では、実は、本当に難しいのだ。だって、それは、隠されている話だから。

 

なんてことを思いながら、皆さんのお話を堪能。是非、第二弾もやってほしい。