野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

全員が演出家だ、わかった覚悟する

佐久間新というダンサーがいる。彼とぼくは、同じ年で、今から30年前の学生時代に出会った。その時は、インドネシアガムランのサークルのメンバーだった。今から23年前に、インドネシアで再会した時、彼はジャワ舞踊の修行のために留学中だった。19年前に、大阪北部で生活を始めた彼とは、その後、日本、インドネシア、イギリス、オーストリアハンガリー、香港など、世界の様々な場所で再会し、徐々に、独自のダンススタイルを確立していった。ジャワ舞踊を学びに留学したのに、いつの間にか、世界のどこにもないような佐久間ダンスを踊る人になっていた。

 

佐久間さんのダンスが、ジャワ舞踊から現在の佐久間ダンスに変容していった大きな要因の一つに、「たんぽぽの家」での活動が挙げられると、ぼくは思っている。佐久間さんは、ダンスの根源を探し求めて、気がついたら、「たんぽぽの家」という福祉施設で障害のある人と、さらにはケアのスタッフと、踊りを模索するワークショップを14年間続けた。

 

その14年間に何があったのか、ぼくは、詳しくは知らない。ただ、その14年間の間に、佐久間さんは、とんでもないユニークなダンサーに変貌した。こんなに変貌した秘密がどこにあるのか。それが、「たんぽぽの家」で佐久間さんがやり続けた「昼のダンス」と呼ばれるワークショップだ。

 

このワークショップの14年間の成果を舞台公演として発表するのが、「だんだんたんぼに夜明かしカエル」という公演だ。ぼくは、この公演の音楽を依頼され、今日も稽古に足を運んだ。即興をベースに活動する佐久間さんのことだから、即興からつくっていく公演なんだろうと思っていくと、かなり綿密に構成が作られた作品になっていた。今日も、ぼくは、通し稽古で音楽を奏でた。

 

小沼純一さんは著書「サウンドエシックス」の中で、「持ち運べる音楽」と「持ち運べない音楽」という議論をしていて、「近代ヨーロッパの音楽はどこへでも持ち運べる音楽としてあるけれども、バリ島の音楽をはじめとして、その生まれた場所でしかありえない、持ち運べない音楽というのがある」とか書いているけれども、「たんぽぽの家」のワークショップも、この場所から持ち運べないものかもしれない。敢えて、それを持ち運べるようにしようとすると、もはや、このままの形では存在できない。そんな14年間、この場所で発酵してきたものを、初めて外に持ち出そうと佐久間さんと皆さんが意気込んでいる。

 

そこに、アドバイザーとして招聘された振付家/ダンサーの砂連尾理さんがやってきて、演出をし始めたりする。西洋のコンテンポラリーダンスの世界から合気道なども経由して徐々に独自の砂連尾ダンスに到達しているダンサーと、ジャワ舞踊から独自のダンスに辿り着いた佐久間さんが、共感しながらも、意見を対立させて、肩を透かしながら、衝突し、議論し、作品を練り上げる。そこに、音楽家の野村も介入して、臨床哲学の本間なほさんが交通整理を始めたり、ダンス評論家の富田大介さんが観客の視点を分析的に解説していく。佐久間新さんが演出・振付とありますが、ここに絶対的なヒエラルキーなど存在せずに、誰もが自分の作品のように語り始める。「共創の舞踊劇」とチラシに書いてあるが、確かに、作者は単数形ではない。複数の人が混在して、この舞台作品を成功させようと親身になって、何時間も語り合う。結論は出ないで、また新しいアイディアが出続ける。打ち合わせの場自体が、演劇を見ているかのような面白さだ。

 

ということで、構築と解体を繰り返しつづける創作の現場が続く。そこには、いろいろな人々の思惑や願いが交差し増殖していく。こうしたプロセスが、非常にスリリングで面白い。一体どうなるのか、主催者は不安かもしれない。出演者もドキドキしていることだろう。しかし、このプロセスそのものが、ワークショップなのだと思う。ぼくらは、ただただ、ああでもない、こうでもない、と意見を交わし合う。お互いの考えを理解し合う。お互いの理想をシェアし、ずれを味わう。

 

そうした言葉を全部聞いて、佐久間さんはうなずく。外野はいくらでも言い続けるのだが、最後に舞台に立つのは、佐久間さんとキャストの人たちだ。本番のその時、その場で感じて、その場で動けるパフォーマーたちが、公演をつくるのだ。それに向けて、今日も、明日も、ああでもない、こうでもない、と言わせ続ける。そのこと自体が、佐久間新の思惑なのかもしれず、ぼくらは気がつくと、彼の作品に主体的に参加させられているのかもしれない。そして、おそらく、佐久間さんの指示ではなく、佐久間さんの命令でもなく、佐久間さんの意図を探ることでもなく、各自が勝手に自分の仕事をやり、各自が勝手に自分の考えで動き、各自が勝手に公演の意図を考え、各自が勝手に公演の中身を創造する、そうしたことの先にあるものが、佐久間さんがやりたいことに違いない、と思う。しかし、こういうアプローチは危険性が伴う。お互いが遠慮し、中途半端になる危険性がある。共同責任は無責任になる危険性がある。だから、ぼくは遠慮しない。砂連尾さんも遠慮しない。キャストも遠慮しないし、本間さんも遠慮しないし、マネジメントも、裏方スタッフも、批評家も誰も遠慮しないし、してはいけない。全員で、佐久間新に遠慮なく、各自がガチで勝負を挑む。そういうスリリングな現場が、今やっている「だんだんたんぼに夜明かしカエル」だと思うと、取り組み甲斐があるし、ぼくが呼ばれた意味もあるんだな、と思った。うん、全員が演出家で、全員が出演者で、全員で創作するんだ。わかった。覚悟する。

 

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