野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

新しい耳と新しい身体になっていく

9月4日の「中川賢一・野村誠生誕50周年記念2台ピアノコンサート オリヴィエ・メシアンに注ぐ20のまなざし」に向けて、ピアノを猛練習中。特に、メシアン作曲の「アーメンの幻影」と野村作曲の「オリヴィエ・メシアンに注ぐ20のまなざし」を練習。「オリヴィエ・メシアンに注ぐ20のまなざし」の2曲目の「音価と強度のまなざし」がなかなか難しく、ぼくが担当する第2ピアノを2段の楽譜でなく、3段の楽譜に書き直したら弾きやすいのではないか、と今頃になって思い立ち、譜面を書き直し練習。残り1週間。

本日は、北口大輔チェロリサイタル。ゲネプロの1曲目のベートーヴェンが終わり頃に到着。なんとか2曲目の鈴木潤さんの新曲に間に合った。これは、非常に美しく意欲的な作品。普段ダンスミュージックをやっている人とは思えないテイスト。3曲目のディーリアスが予想以上に力強い演奏。4曲目の近藤浩平さんの無伴奏チェロ作品は、チェロの音色を思う存分味わえる作品で、照明も薄暗くして、雰囲気あり。5曲目のドビュッシー、6曲目の野村作品と進む。ドビュッシーの後に演奏されるのは、嬉しくもあり、プレッシャーでもある。でも、とても良い演奏で、本番が楽しみ。

カフェで近藤さん、潤さんと語り合う。3人の作曲家の個性は違うが、共通点は、音大に行っていないこと。作曲を音大で学ばなかった草の根的な3人の作曲家は、所謂クラシック音楽業界とは離れたフィールドで活動を展開してきた。近藤さんは、広告代理店で働くビジネスマンで、15年ほど前まで、作曲した曲が音になることがなかった作曲家。しかし、その後、インターネットなどを通じて、世界中で近藤作品は演奏されるようになった。潤さんは、レゲエやダンスミュージックを演奏するキーボーディスト。最近は、日本センチュリー交響楽団のコミュニティ・プログラム・アドバイザーもしているが、クラシック音楽とは最も遠いフィールドで活躍しているミュージシャン。ぼくの初期の活動は、ライブハウス、現代美術、邦楽、ガムランコンテンポラリーダンス、学校教育などのフィールドだった。クラシック音楽を排除していたのではないが、その分野からの仕事が最も少なかった。

こうした3人の作曲家が、ベートーヴェン、ディーリアス、ドビュッシーというクラシック音楽の巨匠と交互にプログラムされるコンサートは、非常にユニークな企画だが、実際に、どう感じられるのか、お客さんがどう反応するのか、それは興味深くもあり、不安を感じる部分でもあった。

客席は満席。コアなクラシック音楽ファンもいるが、通常はクラシックコンサートには来ない人も足を運んでいる。開演のベルが鳴る。北口くんのチェロと塩見さんのピアノでベートーヴェンが始まる。クラシック音楽のコンサートの雰囲気が出来上がり、さすがベートーヴェンであり、さすが北口、塩見の演奏で、一気にドイツ音楽の世界に引きずり込まれる。

このベートーヴェンの熱演の後に、鈴木潤の「琵琶湖組曲」が登場。聴く前には、ベートーヴェンが本家で、これは色物。異色の新作の奇抜さを楽しむ時間だと、無意識に期待するものの、その期待は見事に裏切られる。音楽のテイストは異なるが、正攻法で音楽に取り組む姿勢は、ベートーヴェン鈴木潤も同じだったのだ。そして、北口、塩見の二人は、ベートーヴェンにも、鈴木潤にも、分け隔てなく、同じような熱量で正攻法で演奏に取り組んでいた。だから、鈴木潤の音楽が進めば進むほど、それはクラシック音楽に聞こえるはずがないのに、クラシック音楽に聞こえた。ベートーヴェン鈴木潤は、同じ土俵に立つことがなかったのに、同じ土俵にあがったのだ。そして、若きベートーヴェンが、新しい表現を模索し、試行錯誤して表現した音楽と比べて、鈴木潤が21世紀の日本でチェロとピアノの音楽をどう具現化するかで試行錯誤している音の格闘を聴くと、これは、ベートーヴェンに決して負けない全力の音の冒険であると、痛いほど伝わってきて、心が揺さぶられた。こんなに異質な2曲が、このように感じられるように演奏した演奏者の力量と誠意は、本当に本当に尊敬に値するものだと思う。そして、30年来の友人でもある鈴木潤が、ベートーヴェンにも匹敵する、いやベートーヴェンをも凌駕する才能の持ち主であることを、今更ながら知って唖然とする。いい音楽家であることは知っていたけれども、本当にいいのだ。

その後に、ディーリアスを聴いて、まったりと独特な響きを味わうことになるだろうと思っていた。ぼくの知っているディーリアスの音楽は、そんな印象だった。この曲も事前に音源を聴いて、予習してきていた。でも、ディーリアスの音楽は、まぎれもなくディーリアスなのに、ベートーヴェンにも聞こえてくるし、鈴木潤にも聞こえてくる。ディーリアスは、こんな風にも演奏できるのだ。

まだ自分の作品が演奏されていないにも関わらず、ぼくは大いに興奮して、休憩時間を過ごし、地震があったことにも全く気がつかないほど、意識が浮遊して過ごした。後半の1曲目は、近藤さんの作品。リハーサルで聴いて、美しい作品だとわかっていた。そのつもりで聴くのに、その音楽は音符を一つも変えていないのに、全く違った音楽のように響いた。何が変われば、こんなに違って聞こえるのか、そんなことは頭では理解できない。多分、リハーサルの時の音楽を分析的に聴く耳はどこかに行ってしまい、ぼくはチェロを皮膚で聴いていたのかもしれない。もはや、ここはコンサートホールではなく、違った景色が立ち上がっていた。その景色の中で、同時に、自分の心の内を照らす鏡のようにチェロが奏でる。

5曲目のドビュッシーの「チェロソナタ」は、チェロとピアノのための名作で、ドビュッシーの晩年の傑作である。この作品が圧倒的であることを、ぼくは30年前から知っている。だから、これまで聴いた4曲が吹き飛ばされるほど、強烈にドビュッシーが鳴り響くことがあっても不思議ではない。それくらいの力のある曲だ。しかし、ドビュッシーの演奏が、前の4曲の印象を消し去り、上書きされることはなかった。ぼくらは鈴木潤やディーリアスや近藤浩平の余韻を味わいながら、ドビュッシーを聴くことができた。それは、前の作品の余韻が残って、ドビュッシーの気持ちに切り替わらなかった中途半端な演奏だった、とかでは決してない。本当に、圧倒的なドビュッシーでありながら、ドビュッシーの音楽は、前の作品群の余韻と共存して存在できたのだ。そんな演奏がどうして可能になるのか。これは、本当に凄いことなのだが、どうして凄いのか、これを書いている今でも、まだ言葉では理解できないでいる。ただ、それは体験したことがないドビュッシーの味わい方だったことは、確かだった。100年前に作られた音楽で、100年前には存在しなかった21世紀の感覚でドビュッシーは、こんな風に立ち上がるのだ。

そして、最後に、ぼくの作品になった。聴く前から、これは良い演奏になるだろう、と期待は高まった。ぼくが作曲した音楽で、ぼくが書いた通りの音符を二人が演奏しているが、ぼくが全く知らない筋書きの音楽が始まった。それは、ぼくが知り尽くしているはずの音楽でありながら、初めて聴く音楽だった。これまでの5曲を経由して、ぼくたちは音楽の感じ方、音楽の聴き方の回路が開き、同じ音符がまったく違った味覚で感じられるのだ。ぼくは夢中になって聴いていた。客席で、ずっと手に汗を握り、演奏者と一体になって、時に力いっぱいになったり、時に浮遊するように脱力したり、時に笑ったり、時にうっとりしながら、音楽はどんどん進んで行く。こんな音楽体験をさせてもらって、本当にありがとう。

舞台にあがり、北口くん、塩見さんと握手をする時、 大観衆の拍手の中で、北口くんが小声で「本番、本当に楽しく弾けた」というような言葉を、ぼそっと言った。生きててよかった、と思う。