野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

ジャワの曲者

スタントさん、カトウマミさんのお宅を訪ねる。ボロブドゥール遺跡の近くにある1200年前につくられたムンドゥット寺院の近くに住む作曲家のスタントさん、画家のマミさんを訪ねて2時間近くのバス旅行。彼らとの出会いについては、「だじゃれ音楽」を始める直前、2011年7月21日の日記を参照していただくと、詳しい。

http://d.hatena.ne.jp/makotonomura/20110721

スタントさんにレクチャーをお願いすると、「現代音楽はクソだ!」、「コンテンポラリーダンスは、クソだ!」、「この国の政府は、バカだ!」から始まって、本当に愛情と優しさに満ちあふれた皮肉で、ご自身の活動の根源にある思想を、矛盾に孕んだ表現で説明して下さりました。ジャワの哲学は、矛盾しているのです。テクノロジーを否定し、電子メールを7年間使わず、SNSも時々1週間使わないこともあり、田舎で暮らし、都市の生活を批評した直後に、自分のフェスティバルについて、YouTubeで検索するように言うのです。ディズニーランド、グーグル、マクドナルドなどのグローバル企業について酷評した上で、自分の活動をグーグル検索するように言うのです。非の打ち所のない批評は、暴力的で傲慢になる危険性がありますが、ツッコミどころ満載な批評をすることで、そうならない賢明さをスタントさんは持っているのです。田舎で自然の声に耳を傾けるアートは、孤高の仙人になりそうですが、そこで俗っぽさを失わずにいるために、村人たちと親交を深め、時に商売にも走り、でも金儲けに陥らず、自分の思想を貫きつつ、時に社会と折り合いをつけながら、暴走するインドネシア現代社会にブレーキをかける苦言を呈する。苦言を言うだけでなく、農村の人々を巻き込んだお祭りをコーディネートしたlima gunungというパフォーマンスをプロデュースする。禅問答のようなジャワ哲学は、矛盾に満ちあふれているからこそ、魅力的で、嘘いつわりがないリアルであるように感じられた。

そして、突然、千住だじゃれ音楽研究会の人々に、声でのパフォーマンスをするようにディレクションを始め、その自由でユニークな演出は、計算されていながら、それぞれのパフォーマーの個性と自発性を尊重する隙間の多いものだった。日本語で「くせもの(曲者)」という言葉があるが、彼は本物の「曲者」であり、「曲者」を生み出すことを、「作曲者」というのだ、と思い知る。彼の手にかかると、全ての人々が伝染して「曲者」になっていくのだ。小杉武久が「作曲家とは、曲がったものを作る人」と言っていたのを思い出す。

都会の生活から離れて、田舎の現代音楽を創造するという「離れ業」を成し遂げ、社会工学者と呼ばれる異端児の本領に触発されて、気がつくと、だじゃれ音楽研究会のメンバーは、様々な楽器を手に取り、即興演奏が深まっていき、踊らないはずの人が踊り、声での表現に抵抗があった人が声を出し、それぞれの中で、何かが吹っ切れていく。それにしても、だじゃ研(=千住だじゃれ音楽研究会)メンバーの即興演奏は、素晴らしい。多くは、音楽の初心者だったはずで、何らかの卓越したスキルがあるわけでもない。でも、お互いに信頼したり、気持ちを解放したり、頭で考えすぎなかったりするだけで、こんな風に誰もが音楽ができるようになる、ということを、実現してくれる。ぼくも、自分が得意ではない楽器で参加しようと、尺八を吹いて参加するのも心地よい。

カトウマミさんから、ご自身のガラス絵についてのレクチャーを受け、ムンドッット寺院を訪ねて後、ジョグジャに戻る。今日は、モハメッドの誕生日でもあるらしく、イスラム教徒の行列を回避して裏道を帰る。と同時に、イスラム教徒が多数なのに、町中でクリスマスイブを楽しんでいる。ジョグジャの現代の都市生活に帰っていく。夢から覚めたのか?それとも、こちらの世界が夢なのか?スタントさんの問いを味わいながら、半分夢で半分現実な世界で新聞を広げると、昨日の記者会見がさっそく新聞記事になっていた。