野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

狂気と作曲(マランにて)

東ジャワ第2の都市、マランに着いたのは、朝5時過ぎ。標高400mを越える高地に、これだけの大都市ができるのは、インドネシアならでは。熱帯だと、涼しいところを求めて、人々は高原に住むのだろう。早朝にオーガナイザーのレディーが迎えに来てくれて、移動。ウーキルの友人たちとお茶をする。朝6時に人々が集い、お茶をする。ぼくは、夜行電車で寝たものの眠くて、寝てしまう。ぼくがあまりに眠そうなので、レディの家に行って、寝ることに。レディの家は、さらに高台にあった。

しかし、レディの家に行ったら寝れるわけではなく、ついつい、部屋にある楽器などに興味を示したため、レディーの作曲した作品を聴かせてもらったり、さらには、レディーと即興でセッションをしたりすることに。レディーは、ガムランなどの伝統楽器と、ジャズ、さらに、ループ系の音楽を融合させた音楽を探究。そうこうしているうちに、近所のおっちゃんが入って来て、話しに加わる。この村で、芸術市場のお祭りをやるのだ、と話しが始まり、気がつくと、午後のフォーラムはどう進めるのか、という打ち合わせに傾れ込み、ようやく10時になって、ちょいと睡眠。11時に起きると、知らないうちに、バリ人とオーストラリア人が来ている。彼らもバリから、さっき着いたらしく、オーストラリア人は、バスで寝られなかったらしく、熟睡をしている。オーストラリア人を寝かせたまま、食事に移動。美味しい。マランは食べ物が美味しいのだろうか?

その後、Gelery Malang Bernyaniへ移動。「マランギャラリーは歌う」とでも訳せばいいのだろうか?マランだけでなく、近隣の町モジョコルトなどからも、集まってくる人々。そして、このギャラリー内に、museum musik indonesia(インドネシア音楽博物館)がある。大層な名前だが、様々なインドネシア音楽の音源があるライブラリー。「マコトの音源も寄贈してくれれば、museumのコレクションにできるよ」とレディ。

さて、2時からは、原発に関するディスカッションで、これを拙いインドネシア語で、どう語るのか、ドキドキだった。結局、18年前、神戸の地震の直後に作った「でしでしでし」の音源をかけながら、しかし、地震の直後、どうして自分がこの音楽をするのか分からないまま、それでも、神戸の人々に向けるつもりで、水戸でこの音楽を作っていた。あれは、一体なんだったのか、そのことは、今も分からない、とぼくは語った。2年前に東日本で大震災があり、津波がり、原発事故があり、そして、未だ日本の人々は放射能汚染を気にしながら、日々の生活の仕方を模索し、時に社会を変えねば、世界を変えねばと必要以上に力み、疲弊している疲れを隠して頑張っている。しかし、実は、心も体も疲れているはずなのだ。そして、皆が疲れているため、前向きな議論がなかなか起こらないこともある。微妙な差で互いに批判し合ったり、違いが強調され対立を重ねることもある。小さなグループに分断されて、お互いに牽制し合う。そういう日本を一度離れて、インドネシアの賢者の知恵に肖りに来たのだ。日本は、急速に近代化し経済成長をし、ついには原発事故にまで到達した。そこは、行き止まりで先がないが、どこにどうやって引き返せば良いのか分からずにいる。一方、インドネシアは、ゆっくりと近代化し、ゆっくりと経済成長をしていたが、今、急激に、近代化や経済成長の波が押し寄せそうな気運が高まっている。しかし、賢明なインドネシア人は、日本の後に追随すれば、それは行き場がない行き止まりであることを知っており、日本とは違う別の道を模索すべく、様々な動きが始まっている。賢明なインドネシアの作曲家と、そうした道を一緒に探したく、ぼくはインドネシアに来たのだ、と語る。「インドネシアが日本の先生になる。日本人は賢明なインドネシア人を見習い始めるのです」と語ると、インドネシア人たちは、喜び歓声があがる。

それと、もう一つ、原発事故以来、放射能汚染の話になると、まず、物理学、さらには、経済や社会の仕組の話で語られて、芸術的な直観よりも科学や論理が非常に強調されてきた。科学や論理を否定するつもりはない。でも、そればかりになると、なんだか非科学的な直観が軽視されているような気がするのだ。で、非科学的な芸術家の直観で、この問題に立ち向かうと、どういうことになるのか、それを音楽を通して体感したくて、やって来た、と語った。そして、ウーキルも、マイクを持って、熱く語ってくれた。数日前に、展覧会の講評を語った時の口調とは全く違う力のこもった声で、彼の友人で、電気の発電から野菜づくりまで、自給自足をしている人々の話をしたり、熱帯雨林の話をしたりしている。内容もともかく、声のトーンに驚いた。彼は、こんな風に語るのだ、ということに。

そして、一緒に演奏した。練習し作曲した曲を演奏する。しかし、曲というのは、観客を前に演奏して、初めて見えて来ることがある。演奏しながら、ウーキルの音に色々な思いを感じながら、そして、この場の人々の色々な思いを感じながら、演奏した。それは、2年前に、震災の直後にジョグジャでやったコンサートの時に、体感したのと似た感覚であり、魑魅魍魎が住む世界で、交信をしているような演奏だった。ぼくは何と交信しているのか分からないまま、曲の最後の最後で、遠くに見えたゴミ箱を演奏しようと思い、そこに近づいたが、何かの見間違いで、ゴミ箱はなかった。そして、仕方がなく、近くにあったヘルメットを持って、ヘルメットで鍵盤ハーモニカを演奏しながら、ステージに戻った。そして、それと同時に曲は終わりに差し掛かった。ぼくは、何故か、ヘルメットをTシャツの内側に入れ、お腹が膨らんだ。そして、曲は終わった。妊娠。ぼくが今日のセッションで到達した地点は、妊娠。子ども。これは、一体なんだろう?ウーキルとマランの場との相互作用で、なぜか妊娠した。

その後、いくつかの新聞記者の取材を経て、夜の会場に移動。サウンドチェックを行う。ぼくとウーキルの演奏の前に、JBR(Jawa Band Reformation)の演奏がある。これは、ガムラン、ドラム缶のような廃棄物で作った太鼓によるバンドで、中学生くらいの子ども達が演奏する。日本で言えば、和太鼓クラブみたいなものだろうか。これが、なかなかエネルギッシュな演奏だった。その後、ウーキルとのデュオ。お客を前に、事前に作曲した3曲を演奏したわけだが、やはり本番には魔物が住んでおり、練習では見られない光景を体験した。そして、3曲の最後は「ありがとう」の言葉に収斂されていった。これで終わりかと思うと、その後、レディーのバンド+JBRとのコラボレーション。ああ、子ども達と、この奇跡的な音楽の実験を一緒に体験している。なんか18年前の「でしでしでし」と状況が似ているなぁ。こんなにたくさんの子ども達と共演するとは思っていなかった。昼間の演奏では妊娠し、夜は想定外の子ども達との共演。なんだか分からないけれど、ジャワの神様は、ぼくに「子ども」というメッセージを発している、ということだけは分かった。

それにしても、本番でのウーキルのパワーも凄かった。「マコト、君はgila(クレイジー)だ。」とウーキルは言う。でも、一緒に狂ってくれるウーキルのような仲間がいるからこそ、ぼくもクレイジーでいられる。そして、ここにはクレイジーを受けとめてくれる場がある。そう、ジャワには、ちゃんと狂気を内包する作曲の仕方があり、魑魅魍魎を内包する作曲の仕方があるのだ。作曲を合理化し過ぎたり、整理し過ぎることで、狂気も魑魅魍魎も、作品の外に追い出される。そして、どんなに構成が緻密でも、正確に訓練しても、大切な何かが欠落してしまう。うん、そうだった。その大切な何かを求めて、ぼくは子どもの音楽に学び、お年寄りと共同作曲をし、障害者施設での音楽を見学し、動物園で動物とセッションをし、アジアの各地で自然とセッションをした。作曲とは、ちゃんと狂気も魑魅魍魎も内包するものなのだ。少なくとも、ぼくにとっては、ずっとそうなのだ。胡散臭い神秘主義だと、レッテルを貼るのは簡単だけど、それは現代の科学で究明できていないだけで、一つの方法なんだと、ぼくは思う。だからこそ、ぼくは音楽を続けて来たのだろう。そして、その謎を突き止めたくて、ぼくはジャワまで来ているに違いない。しかし、それは、本当に愛しくて、究明などするのは野暮な、ただそれだけで十分なのは、百も承知なのだけれども。