野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

Wukirとのセッション

昨日、ギギー君には、英文で書いた企画書を見せて、プロジェクトの概要を説明した。しかし、これでは、英語ができる人としか、プロジェクトができなくなってしまう。まずは、インドネシア語で企画書を書こうと思い、英文の企画書をインドネシア語に訳し始める。しかし、圧倒的に英語よりもボキャブラリーが少ないので、インドネシア語の語彙数に応じて、訳すしかないので、非常にシンプルになる。しかし、シンプルになる方が、自分の考えが整理できていいかもしれない。ということで、午前中に、インドネシア語の簡単な企画書を書いてみた。これで、ちゃんと伝わるのか、ドキドキである。これを再度、日本語に直訳すると、こうなります。

「東南アジアにおける共同作曲の実践とドキュメンテーション ー原発以降の未来のために」  野村誠

1)なぜ、このプロジェクトを始めるのか?
 私は共同作曲に関心があります。なぜなら、これまでに様々な集団で作曲する方法を模索してきたからです。インドネシアとタイの作曲家は、共同作曲に非常に意欲的ですが、そのプロセスに関する文献はありません。私は、それについて、調査しドキュメントしたいと思っています。
 2011年3月11日、東日本で巨大な地震がありました。この災害は福島の原発を破壊し、放射能が日本や太平洋に広がりました。地震が起こったとき、私はインドネシアジョグジャカルタに住んでいて、多くのアーティストが日本の災害のためのコンサートの開催の手助けをしてくれました。
 2011年7月の終わりに、日本に帰国してから、私は日本の状況と問題を理解します。原発からの放射能は非常に危険で、それは、色々なことと関係します。つまり、空気や水の環境とも、地球と共生する現代生活とも、テクノロジーの問題とも、政治や経済とも、食の危険性とも、そして、その他の色々なことと、関係するのです。私は、一人の作曲家として、日本の状況と問題に対して、どんな風にプロジェクトができるか、考えに考えました。しかし、私一人では、ポジティブな未来を探すことができません。私は、他の日本人たちとも考えました。しかし、この災害を被った日本人みんなが、素晴らしき未来を探すために、前向きになれないのです。ついに、私は原発以降の未来のために、タイとインドネシアの創造的な音楽家と共同作曲のプロジェクトを始める決意をしました。なぜなら、私はアジアの協力し合う方法こそ、この難しい問題に対して、良き未来を探すことができると、信じるからです。

2)「東南アジアにおける共同作曲の実践とドキュメンテーション ー原発以降の未来のために」のプロジェクト概要

インドネシア
4月27日〜6月17日
タイ
6月19日〜7月16日

方法
1:共同作曲を行う創造的な作曲家に、その方法や創作プロセスに関してインタビューを行う
2:原発の問題、未来の音楽、未来の生活に、関してディスカッションを行う
3:上記の議論にもとづき共同作曲を行い、プロセスをドキュメントする(文章、録音、写真、ビデオ)
4:可能であれば、コンサートを行う

さて、この書類をプリントアウト。出発前にご飯どうしようかな、と思っていたら、こちらの家主インドネシア人のお母さんが、ご飯食べなさいどうぞ、とすすめてくれる。お言葉に甘えて御馳走になり、みんなに食べてもらおうと買ってきていたスイカを切って持っていく。なんでも、みんなとシェアする国ですから、食べ物も独り占めしないし、音楽作品だって独り占めしない。私の作品は、あなたの作品でもあり、私のスイカはあなたのスイカでもある。どうぞ、一緒に食べましょう、となるわけです。

午後1時、ニティプラヤンに住むアーティスト/音楽家のウーキルを訪ねます。アートマネジメントをしているドリーが迎えにきてくれてお宅に伺うと、奥さんのグンディスとウーキルに会います。竹や廃材などで作った大小様々な手作り楽器に圧倒されます。廃材で作った楽器ですが、ピックアップで拾って、アンプで大音量で鳴らします。オーストリアのクレムスで行ったパフォーマンスの映像を、お土産に渡すと、なんと、今年の7月に1ヶ月、クレムスにレジデンスするとのこと。また、内橋和久さんと昨年アルバムを作ったとのこと。世界は大きいようで狭い。ウーキルは独学で音楽を始め、12歳で演劇の音楽の仕事を始めたそうです。その後、演劇の勉強をし、サドラさんに実験音楽の真髄を教わったことがあるそうですが、大学などで教育を受けていない独習者だそうです。グンディスやドリーは、ぼくの資料や企画書を丁寧に読んで、自分達が未来に実践しようと思っているオルタナティブスクール(教えない学校)の構想や、パーマカルチャーのことなど語ってくれますが、ウーキルの方は、楽器をプレゼンしたり、即興セッションをしたくて、うずうずしています。しかも、彼だけでなく、ぼくにも彼の自作楽器を演奏して欲しいようなので、まずは彼の楽器を一緒に演奏して、セッション。次々に色んな楽器でセッションした後、鍵ハモをぼくが吹き出した時に、アンプのボリュームを下げ、大音量ではなく、中音量にして、セッション。ノイズ系の音も、リズミックな演奏も、メロディックな演奏もして、多彩ですし、自分の作った楽器だけあって、熟練しておられます。

じゃあ、ちょっと休憩しようと、お茶を飲んでくつろぐのに、気がつくとウーキルが別の楽器を見せ始め、ドリーやグンディスが、「ちょっと休みなさいよ」となだめているうちに、また即興セッションが始まる。そんな風にして、何度も即興をしました。

ウーキルはソロでも演奏すると同時に、竹の楽器ばかりのバンドもしているそうです。バンドの時は、即興なの?と聞くと、即興をして、それをもとに、だんだん曲になっていったりする、と共同作曲のプロセスを語ってくれました。自分の楽器を十分にプレゼンした後に、徐々に企画書を読み始めたり、いろいろ構想を出し始めます。今は、ブレインストーミング、アイディア出しの段階だ、とウーキル。まずは、狭くなく、いろいろ提案して、広いところから始めるのが、インドネシア流なのかもしれません。

その後、裏庭に出ると、バナナの木がいっぱいあり、収穫したてのバナナをいくつも食べさせてもらいました。庭のバナナ、もちろん、無農薬です。こちらのバナナは、本当に味が濃厚で美味しい。ayam kampungという小型のニワトリが歩いていました。ケンタッキーとかのニワトリは、全部、注射されてるニワトリなんだ。庭を自由に歩き回っているニワトリの卵は、本当に美味しいよ、と言っています。そして、ニワトリの卵や、バナナなどを大量に袋に入れて、お土産に持たせてくれました。あと、大量に木の柱のようなものが積んであって、「これは、ジャワの伝統的な家。2006年の震災で、西洋的な石の家は、全部壊滅したけど、ジャワの伝統的な家は、大丈夫だった。ちゃんと地震に対応できるように、柔軟にできているんだ。だから、将来は、木の家を作って住みたいんだ」と言う。

ということで、帰るのかな、と思ったところ、今晩、予定は?と聞かれて、予定はないけど、と答えると、tembiでマランのインドネシア音楽博物館の人が来て、ディスカッションがあるけど、行くか?と聞いてくる。夕方5時。どうしようか迷って、半分断るつもりで、帰ってちょっと休もうかな、と言ったら、「疲れてるなら、ちょっと休んでいけば」と、寝室を用意されて、1時間半ほど、睡眠。初対面の人の家で、いきなり寝るとは思わなかった。

で、目が覚めると、既に暗くなっていて、部屋の外から笛(スリン)の音色が聞こえてくる。目を覚まして出て行くと、そこではウーキルがジャワの笛を吹いていた。尺八のように。ぼくは鍵ハモを取り出し、一緒に演奏し始めた。初対面の時の次々に楽器をプレゼンしていた時のハイテンションではなく、じっくり落ち着いたゆったりした演奏だった。深い深い息のある音楽だった。ウーキルは、「今のを構成を決めてやっていくと、作曲になるよ」と言う。そして、少しだけ構成やフレーズを決めてみた。このまま続けると、曲が育っていく。寝室をお借りした後に、作曲までするとは思わなかった。「原発事故に関するドキュメント映像を流しながら、それに合わせて演奏もできるんじゃないか」とウーキルは言った。もともと、ウーキルは演劇や映画の音楽から出発して、今はライブや楽器製作を中心に活動している。映像はネットから探すよとウーキル。彼は一体どんな映像を探してくるのか、彼の提案にのってみようと思う。

その後、tembiに行くと、ギギーがいる。彼は、ここの研究員だから当然だけど、簡単に会える町だ。「インドネシア原発事情について、昨日調べてみた」とギギー。速い。「昨日の鍵ハモデュオの即興、録音聞いたけど、すごく良かったから、soundcloudにアップしていい?」と言うので、この日記がアップされる頃には、きっとアップされているでしょう。展開の速さは、ジョグジャは凄いなぁ。

https://soundcloud.com/gardika-gigih-pradipta/pianica-duet-2-makoto-nomura

ウーキルとグンディスと一緒に、ビーフンを食べる。ぼくのだけ辛さ控え目にしてもらう。その後、マランのインドネシア音楽博物館の人が来て、話したり、ギギーが来て話したり、tembiのロシーにも久しぶりに再会したり。そして、ウーキルがご飯のお会計をしようとするので、ぼくも慌ててお金を払おうとすると、お店の人が、会計はもう終わってるよ、さっきロシーが払っていったよ、と言う。いつの間に。そして、5月にマランにコンサートとトークに行くことになった。コンサートはともかく、トークができるように、インドネシア語をもっと勉強しなくっちゃなぁ。