野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

ギギー君との再会ー「新しい伝統的な生活」に基づく「新しい伝統音楽」

朝8時に起きて、9時前に入国管理局へ出発。ジョグジャに着いて3日目だが、今のところ、雨は一滴も降っていない。久しぶりに裏道を歩いて、汗がどんどん出てくる。道で会う人みんなに挨拶して、バス乗って、書類書いて、提出。と思ったら、書類一枚足りない、と言われて、10時半すぎ。2時までにとって来なさい、と言われて、再度、バスに乗って、裏道を歩いて、家に着いたら11時半。プリンターを借りて、プリントアウトして、再度、出発して、道行く人に挨拶して、バス乗って、12時半に着くけど、お昼休み中なので、屋台でミーアヤムを食べて、1時になって提出し、今日のところは、なんとかなり、またバスに乗って、ちょっとスーパーで食材を買い物して、裏道を歩くと、犬がなついて、尻尾をふって足にすり寄って来るが、知らぬふりして、歩いて行くと、子ども達が、外国人珍しさに、いろいろ挨拶した上で、5mほど離れて、尾行してくる。そうして、3時に家に着くと、ニョト先生のガムラン特訓が行われていた。

ガムラン特訓が終わると、ニョト先生がお喋りしたそうなので、お喋りに加わる。お喋りが一段落した頃に、若き作曲家ギギー君がやって来る。ぼくは44歳、彼は22歳。今年の2月、3月に行った「鍵ハモトリオ」コンサートの録音をプレゼントし、コンサートの様子も説明する。この辺は、序章。

ギギー君は、作曲家で通常の倍のスピードで単位を取得し、20歳で芸大の作曲科を卒業。また、ジョグジャ唯一の鍵盤ハーモニカ奏者。2年前に半年間、毎週のように会って、時間を過ごした。ぼくがこの20年間で蓄積した鍵盤ハーモニカと共同作曲の手法や考えを、惜しみなく可能な限り伝授したし、逆に彼からは、インドネシアの現代音楽の事情、ガムランや伝統音楽、関連する書物の情報などを、教わった。そして、一緒にいくつものコンサートを行った。

ギギー君と、久しぶりに、鍵ハモデュオで即興をしてみた。2年前に初めてここで会った時にしたように。ギギー君の音は、2年前に持っていた輝きを持ち続けながら、しかし同時に、2年前にはなかった新たな光を放っていた。2年間で、彼が様々な経験をし、培ってきたものがいっぱいあることは、音が雄弁に語っていた。この2年、彼は何をして来たのだろう?

インドネシア語と英語を交えながら、話を聞く。彼は、「トゥンビ文化の家」のオーナーに、彼の夢を語り、特別に、トゥンビの研究員というポジションで雇用してもらい、インドネシアの伝統音楽を調査しながら、創作をする自由を与えられていた。そして、毎週のように、インドネシアの伝統音楽のワークショップ、コンサートなどの現場に出向き、記録し、調査内容をトゥンビのウェブサイトにアップロードしていく。そして、そうした経験を生かしながら、作曲をする。その第1作が、鍵ハモトリオ「Melodi di Kampung」だったとのこと。

彼は、芸大を卒業後、すぐには大学院に進学しなかったが、文化人類学を大学院で学ぶことに決めたそうだ。伝統音楽は、一体、どこから、どのようにきているのか、そのことを、もっと勉強したい、という興味だそうだ。そして、トゥンビ音楽祭の実行委員をしていた2年前、彼は「Musik Tradisi Baru(新しい伝統音楽)」というテーマを掲げ、作曲コンクール、コンサート、レクチャーなどを企画した。今回は、キュレーターのような立場で、音楽祭で、同じテーマで行うらしい。でも、作曲賞はやめて、応募された作品について、かつて審査員だった人が、点数をつけるのではなく、可能性についてコメントをする。また、観客も、それぞれの作品について、コメントを書いて提出する。また、レクチャーをやめて、コメンテーターと観客が一体となって、「新しい伝統音楽」というテーマでディスカッションをする、と言っていた。

彼によれば、近代化、経済成長が進む中、インドネシアはどこに進めばいいのか? それについて、困惑している時代だと言う。「伝統」という言葉は、過去に結びついている言葉と解釈されやすい。でも、過去=伝統、未来=テクノロジーなどという単純なものではない。だから、「伝統」という言葉と、「新しい」という一見相反する概念を並列し、それについて、みんなで考えたいというのだ。

彼と話していて、「新しい伝統音楽」を考える上で、「kehidupan tradisi baru(新しい伝統的な生活)」について考えることが必要な気がし、提案してみた。放射能と共に生きる現代、さらに未来のために、どうやって音楽をしていくべきか、そのことに、この2年間、日本で、ぼくなりに精一杯楽しみながら出口を模索していたつもりだが、実際は、日々苦悩し出口を見つけられずにいたことを告白したい。本当の意味で、ポジティブな道を見つけられずに、焦燥感ばかりが高まり、下手すると空回りする、そんな危険な中で、溺れながらもがいていた気がする。ぼくら日本人は、突如として、放射能と共存する世界で生きる、という大海に放り出され、必死に泳いでいるが、どこにも陸地が見当たらない。そんな世界で、みんなが、様々な方向を指して、そっちに行くと危ない、こっちに行くと危ない、あっちが未来だ、いやこっちが未来だ、と叫んでいる中、途方に暮れる。その状況を一度リセットして、原発事故の渦中から距離を置いた東南アジアの人々の知恵を借り、一緒に脱出口を探したい気持ちで、インドネシアにやってきたのだ。ぼくだって、日本の中では、弱音が吐けなかったし、強がって希望を語らないとやってられない環境でもあった。でも、これ以上、ここでもがいても無理だと、藁にもすがる気持ちでインドネシアに来たのかもしれない。今日、彼と一緒に音楽をし、語り合う上で、脱出口が見つけられる勇気が持てた。それは、日本人だけの問題でもなく、インドネシア人だけの問題でもなく、双方の世界でぶち当たっている壁のどこに出口があるのか、という問いだった。そして、彼と、「新しい伝統的な暮らし」に基づく「新しい伝統音楽」について、2ヶ月間追求していきたい、と思った。