野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

20年ぶりのミーティング/日本の作曲/能楽源流考

今から20年前、ぼくは京都女子大学で専任講師をしていた。講義や演習、卒論指導などをするのは楽しい時間であり思い出で、組織の中での理不尽なことが受け入れ難く、3年で退職し、フリーランスの音楽家に戻った。

 

その頃に、ぼくの授業に出ていた人が、中学校/高校の先生になっていて、コロナを機に始まった体験学習のような企画で、ぼくは招いて何かをしたい、との連絡を受けた。本日は、その打ち合わせをした。20年前の授業のことをとても覚えてくれて嬉しい。何かできたらいいなぁ。

 

確定申告のための作業が、だいぶ出口が見えてきた。

 

『日本の作曲2010-2019』や『日本の作曲2000-2009』でも野村作品について取り上げられたが、『日本の作曲2020-2022』で野村作品がとりあげられるらしく、データのやりとりなどをする。

 

能勢朝次『能楽源流校考』という1000ページ近くある本を、時々開く。日本の演劇を遡っていくと、歌舞伎→能→猿楽→となっていき、平安時代相撲節会では、相撲があり、雅楽があり、猿楽、散楽などがあり、これは言ってみれば、相撲と雅楽と能が一緒に存在するというのは想像するだけで面白く、言ってみれば、相撲と音楽とダンスと演劇が一緒になっていた儀式があった、ということなのだ。しかし、何のために相撲節会をするのだろう?ぼくの説は、734年に起こった畿内七道地震を受けて、大地を鎮めるために始められたのではないか、というもの。

 

明後日、3月16日(土)に、熊本のアーケード街で演奏する。タンバリン博士の田島隆くんは、本当に素晴らしいので、お近くの方は是非!

artplex.jp

 

里村さんに色々話し相手になってもらい相談する。考えをノートに書き留めていくことにしたく、書記してもらう。話すこと、書くことで整理されることも多い。

 

肥後琵琶/山内光代/須藤かよ

本日は、肥後琵琶のお稽古の第1回目。先生は、岩下小太郎さん。今日は、琵琶の歴史に関して、小太郎さんに講義していただき、ぼくが色々質問したり、絃の張り方を教えていただいたりした。あとは、楽器の持ち方や奏法などについては、質問すると実演して教えていただく。気がつくと2時間半も!貴重な資料はお貸しいただき、勉強することいっぱいで初心者は楽しい。

rkb.jp

 

熊本市現代美術館の『ミュシャ』展を見る。九州で唯一の公立の現代美術館なのに、熊本市現代美術館は、現代美術の展覧会でないことが結構あり、「熊本市美術館」という名前に変えた方が適切なのでは、と思うこともある。図書スペースに、タレルやアブラモヴィッチの作品が常設されているのを知って、最初に来た時はワクワクしたし、図書スペースの蔵書もとても良いのだけど、、、、。九州にいると現代美術の展覧会自体が本当に少ないので、せめて現代美術館では現代美術の展覧会をもっとやって欲しいなぁ。それでも、『ミュシャ』展の最後におまけのように熊本市現代美術館のコレクション作品から、数展が関連作品として展示されていて、ささやかに現代美術があった。あと、無料で入れるギャラリーで、山内光枝さんの映像作品の上映をやっていて、これが一番面白かった。

 

3月30日に、ぼくは熊本市現代美術館のアートラボマーケット(という名のスペース)に登場し、ワークショップか何か面白いことをする。その下見を兼ねて、アートラボマーケットのスペースも見る。

 

夜は須藤かよ(ピアノ)、五十嵐歩美(ヴァイオリン)、松本敏明(ハーモニカ)によるライブを聴きに行く。須藤さんは、以前東京でライブで対バンになったことがあったが、10年以上昔に熊本の田舎に引っ越しされていて、ぼくも熊本に来てからお会いしていなかったが、最近連絡とって、今日、ようやく再会。行くと言ったら、鍵盤ハーモニカを持って来て、と言われたので、鍵盤ハーモニカを持っていった。ライブはブラジル特集で熱演を楽しんだ。途中で、我が琵琶の師匠の小太郎さんが琵琶で登場してセッションタイムがあり、そこでぼくも鍵盤ハーモニカで出演。さらには、明日、東京に引っ越し、これから東京で音大生になるという若きトランペッターがOver the Rainbowを吹く時にも、ぼくも呼ばれて鍵盤ハーモニカを吹いた。せっかくだからブラジル音楽もやりたかったけど、またの機会に。《あんたがたどこサンバ》とか《肥後琵琶ブラジル》やりたくなった。せっかくハーモニカの名手がいたので、ハーモニカと鍵盤ハーモニカのセッションしたかったなぁ。

 

 

 

 

 

 

 

相撲随筆/数字より内容を振り返りたい

酒井忠正『相撲随筆』(ベースボールマガジン社)読了。初代相撲博物館館長を務めた明治生まれの著者が1954年に出した本で、明治、大正、昭和初期の相撲を同時代として目撃してきた方の感覚を文章を通して味わえたところが、非常に新鮮だった。

 

確定申告のために交通費を記帳すべく、1年間のブログを全部読み返す作業をしている。この日、北千住から梅島に行って、梅田クラブとワークショップがあったんだなぁ、とか思いながら、北千住ー梅島間の交通費をエクセルに入力し、この日はガムランのリハーサルで向日町で車に乗せてもらったから、京都向日町をJRに乗ったなぁ、とエクセルに入力する、という甚だ効率が悪いことをやっている。毎日やっておけば、こんなことする必要がないのだが、1年経って振り返ることが意味があるような気がして。要するに、税務署からは1年間の会計の報告をしろと言われているのだが、自分としては1年間を報告するなら、お金のことなんて二の次で1年間に何をしていたのか、その意味を報告したい。でも、税務署はそんなことを求めていないので、お金の数字だけを報告する。その数字だけを報告するのが悔しいので、自分なりに数字で表せないことを拾いながら、ついでに数字を書き出している。そんなことをしているから時間がかかるのだが、効率よくやるより、時間をかけてでも何か発見をしたくて、ゆっくりやっている。こうやって次々にブログを読み返して交通費を記録していると、昨年の6月末から7月上旬にかけて、信じられないような移動をしていることを再認識する。今から思うとコロナにもならず無事に乗り切れてよかったなぁ、と思う。

 

東日本大震災から13年/般若心経聴き比べ

3月11日。2011年から13年が経つ。あれだけ大きな原発事故が起こったのに、原発はなくなっていない。東日本大震災以降、東日本の原発が稼働しない中、西日本の原発が再稼働してきている。佐賀の玄海原発(糸島と目の鼻の先)や鹿児島の川内原発が再稼働している。老朽化しているものを期間延長で使ったりしている。原発に関しては、放射性廃棄物を数万年に渡って安全に管理するための画期的な方法が開発されて、真に実用化されない限り、原発を使うべきではないと思う。

 

あの震災が起きた時に、インドネシアにいた。原発事故を知った時点で、二度と日本の地を踏めないことを覚悟した。祖国を失い散り散りになったユダヤ人の気持ちを、少しだけ自分ごととして理解できた。異国で盆踊りを踊ったり、その地で手に入る食材で和食を作ることについて考えた。今、こうして日本に戻って暮らせていることを奇跡のように思う。その奇跡に感謝するだけでなく、この奇跡を精一杯生きたいと思う。

 

そんなことを思いながら、確定申告の準備で、領収書の整理と記帳を頑張り、確定申告まであと一歩まできた。しかし、ずっと事務作業はつらいので、琵琶でウクレレのように3コードを弾いて遊んだり、ピアノを弾いたり、読書をしたり、音楽を聴いたり、家事をしたりする。日常。

 

ふと、韓国の仏教音楽に関して検索していると、般若心経を聴き比べる動画に出会う。この動画がどれだけオーセンティックなものなのかについては深く考えずに、単純に比較してみよう。

 

インドの般若心経の動画は、3つのピッチがあるメロディーで、リズムもかなり不規則で、長く伸ばす音がある。

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チベットの般若心経には、3つのピッチによる歌になっているように聞こえる。リズムは、完全に均等ではないけれども、極端に長い音はない。声で刻むような低音パートがあって、日本だと木魚のパートにあたりそうに思った。

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韓国の般若心経というのは、やはり3つのピッチがある。リズムは、木魚でキープして、声もずっと8分音符で刻む。

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日本の般若心経になると、ピッチは3つありそうなのだが、ほとんど一つのピッチで歌うシンプルなものになり、その代わり、微細なポルタメントが強調される。リズムも韓国を8分音符とすると、こちらは4分音符になる。

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とても面白いと思う。能の高砂を参照しながら作曲した《初代高砂浦五郎》で書いたメロディーと、インドの般若心経は少し似ている。もっともっと勉強したい。

 

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野村誠の現在地

里村さんが仕事が休みで、お出かけしたり話したり。自分のこれまでを振り返り、今後の方向づけをするために、漠然と感じていることを少しずつ言語化している。まだまだ、なかなか言葉にならないけど、すごく前向きになっているし、やる気になっている。少しずつ確信も持てるようになっている。それを以下、なんとか言葉にしてみる。

 

(1)価値の転覆

ぼくは活動を始めるにあたり、産業としての音楽ビジネスに組み込まれていくことに違和感を覚えた一方、大学という音楽アカデミズムの中で研ぎ澄まされている現代音楽にも違和感を覚えたので、音楽産業とも音楽アカデミズムとも距離を置き、そのカウンターとして、徹底したアマチュアリズムで対抗した。プロの音楽家が生み出す商品をアマチュアが消費するのではなく、アマチュアこそが新しい音楽を産み出すと思った。大学で研究される現代音楽をありがたく学ぶのではなく、アマチュアこそが大学では到達し得ない領域に達するのだと思った。アマチュアによる革命を起こすのだ。音楽産業や音楽アカデミズムと一線を画するオルタナティブな音楽創造をしていこう、と始めた。アマチュア楽家として象徴的な楽器として、鍵盤ハーモニカという正統な楽器と見なされない楽器を手に、価値の転覆を起こそうとした。

 

(2)二項対立ではない

当初の発想は革命であり転覆だったので、今ある価値観を反転させようとした。「プロよりもアマが素晴らしい」、「西洋よりも東洋が素晴らしい」「大人よりも子どもが素晴らしい」、「健常者よりも障害者が素晴らしい」などだ。それは、既にある価値観を前提としたカウンターで、無鉄砲な若者は、そうやってはっきり敵をつくり、それに抗うことで自分の立ち位置を正当化していた。しかし、世界はそんなに単純に二分化されるものではない。大人に全く毒されていない子どもなんていない。西洋の影響を全く受けていない東洋はない。純度100%の子どもなんて実在しないのだ。ぼく自身、比較的子ども性を高く持っている大人である。ぼくは敵対する価値や権威の中に、自分自身も存在していることを薄々感じていながら、自分のことは棚上げし、「革命」や「転覆」は、「共存」や「多様性」などの言葉に置き換えて活動を続けた。細やかなネットワークを作ったり、小さな集いをつくることで、少しだけ手応えを感じつつも、厳然と存在する強固な旧いヒエラルキーやシステムに違和感を覚え続けてきた。

 

(3)自分の中の保守

そんな中で、2014年に日本センチュリー交響楽団のコミュニティ・プログラム・ディレクターに就任する。自分が最も保守的と思っていたクラシック音楽のオーケストラという西洋の19世紀を踏襲した組織と関わることになり、革命や転覆でいいのか、本気で向き合うことになる。徹頭徹尾オーケストラをぶち壊さなければ意味がない、と意気込む気持ちもある。でも、そうすると保守的な反発と対峙し、無益な衝突と摩擦ばかりが生じるだろうが、結局、何も変えないのではないか?と思った。仮にヒエラルキーを転覆させることができたとしても、また新しい価値観のヒエラルキーができあがるだけだ。そうではなく、ピラミッドを少しずつずらしていきながら、どんどんなだらかにしていくようなことって、できないのだろうか?

ぼくは、まず自分自身の中にもオーケストラ性があるはずだと考え、自分自身を率先してオーケストラと同化させていった。ぼく自身が、オーケストラの保守性を内包した存在だと自覚した上で、オーケストラと化した野村誠を変容させていくことをしようと思った。ぼくは、保守的だと思ったオーケストラを全肯定し、少々無理をしてオーケストラになろうと接近し、ハイドンに出会う。

 

(4)ハイドンになる

ぼくにとって、ハイドンは最も興味がない作曲家だった。貴族に雇われて、古風な古典派の教科書のようなつまらない交響曲弦楽四重奏を量産しただけの人物、と思っていた。でも、ハイドンの有名でもない交響曲の面白くなさそうな楽譜を分析してみたら、考えが変わった。金太郎飴のような何の変哲もない山ほどの交響曲の中に、密やかな「遊び」や「実験」が無数に盛り込まれていることに気づいたからだ。それは、子どもがデタラメに楽器を奏でている中に、「遊び」や「実験」が無数に盛り込まれているのと同じだと思った。子どもの悪戯に音楽の未来を見れる野村誠が、どうしてハイドンの駄作の中にある音楽の未来を無視していいのだろう?ぼくは大いに反省し、ハイドンになろうとした。

 

(5)脱力と作曲

オーケストラに取り組み始めた同時期に、相撲というこれまた伝統的/保守的な文化にのめり込むことになった。国技だ、神事だと言われるものは、実は長い歴史の中で時の権力者に迎合しながら変容して多層的になっていることを知り、この聖俗混在し、保守的かつ革新的という相矛盾する両極を内包する相撲に、自分が解けない問いの答えを求めて、相撲を多角的に見つめて(聞いて)いくことになる。伝説の力士双葉山の身体から、究極の脱力のことを考えていく中、脱力というのは身体だけではなく、思考でも脱力できるべきと考えるようになった。そして、作曲という行為で脱力をしていくとは、どういうことかと考え、100曲以上の交響曲を書いたハイドンこそ、脱力して作曲していたのではと考えた。ぼくは力作を書くことをやめ、今まで書いたこともないほど多くの作曲に次々に取り組んだ。これだけ多産にすることで、力みをなくし、脱力して作曲できるように自分自身を追い込むつもりだった。次々に譜面を書き続け、ハイドンになり、オーケストラになろうとし、以前よりは脱力して譜面を書くようになった。

 

(6)矛盾と向き合う

オーケストラは一つの例で、それ以外にも数多くの共同作曲やコラボレーションを繰り返し、ぼくは自分の中に様々な他者を吸収し、野村誠という存在は、ますます相矛盾する存在になっていくと感じた。保守性と革新性を同居させ、というか、そもそも二項対立のようなシンプルな言葉では割り切れない多様性を、自分の中に感じる。言葉で「多様性の共存」などと言うのは簡単だけど、自分のアイデンティティを多様化させて多重人格になっていけば、人格は破綻しかねない。それは、こんがらがった複雑な知恵の輪のような、解けない方程式のような、決して片付けることなど不可能なカオスな倉庫のような、そんな自分自身を前にして呆然としながら、脱力して次々に作品を発表し続けた。

もう一歩、踏み込みたい。この混沌とした自分自身(=世界)に向き合い、今の世界が抱えている矛盾を、「矛盾」という言葉で片づけないで、衝突や転覆させずに、どう解いていけるのか、その糸口を丁寧に紐解いていくのだ。自分の直感を信じて取り組みながら、本当にそれでいいのかを独りよがりにならずに、共有していきたい。暴力や戦争やハラスメントや所得格差や、、、、神様か天才が出現して解決してくれーーって、すがりたくなるけど、アマチュア主義から出発して価値を転覆するんだ、と活動してきた野村誠が何言うねん!非力な微力な凡人に変えられる世界があるんだーー、と諦めずに生きていくんだ。言ってること論理破綻してるけど、でも、いいのだ。そこをグルグル巡りながら、世界を変えてやるんだーー、という意気込みを忘れずに、自分に向き合って音楽を掘り下げてやるぞーーー、と覚悟が持てた。

 

こころを旅する数学/星空/相撲の歴史

ダヴィッド・べシス(野村真依子訳)『こころを旅する数学』(晶文社)読了。これは、本当に面白い本だった。数学というと論理と考えられがちだけど、論理は表向きで本当は数学者は直観/直感でイメージしている、と言う。ぼくが最近、趣味として数学を始めたのは、童心に帰れるからだ。別に音楽やってる時だって、できるだけ大人の事情に毒されずに、童心でやっているけど、もっともっと童心でやっていいと自分をほぐすためにも、数学をやるのは精神衛生上よい。

www.shobunsha.co.jp

 

夜、星空を見る。いろんな星座が輝いているが、木星を除くと、毎冬、全く変わらず同じ配置で同じように星は輝いていて、1年前も30年前も45年前も同じで、あまりにも同じなので、星空を見ているうちに、ぼくは、小学生の時のぼくになったり、中学生の時のぼくになったり、20年前のぼくになったり、2年前のぼくになったりする。こんなに全く変わらないものって、なかなかないんだ。だから、なんとも言えない気分になるのだろう。これも童心。

 

春木晶子さんという方の『相撲の歴史1500年』というYouTube動画を見た。相撲の歴史については、本で読んで知っていることではあるのだが、錦絵と相撲の関係を論じる話が大変面白く、とても楽しく見た。

www.youtube.com

 

相変わらず琵琶に熱中しているが、とりあえず今は何も参照せずに、初めて触る楽器を即興で演奏している。これも童心。

35年を振り返り

高松市美術館の35周年記念コンサートを準備するにあたり、自分史35年を振り返ることになった。ぼくが鍵盤楽器を演奏し始めたのは50年前、作曲を始めたのは47年前だが、自分で企画をして作品を発表し始めたのは、35年前である。

 

共同作曲というテーマを見つけたのが35年前。そこからバンドpou-fou、子どもたちとの共同作曲、お年寄りとの共同作曲などを続けていき、「しょうぎ作曲」という方法を考案したのが25年前。「しょうぎ作曲」を実践していく中で、音楽を聴覚に特化せずに、五感、いや六感を通して味わうべく、演劇、身体表現、舞台芸術などとコラボレーションに本格的に取り組み始めたのが20年前。ヨーロッパやアジアなどで様々コラボを経て、相撲をリサーチして新しい作曲哲学の構築に着手し始めたのが10年前。で、自分の現在地はどこにあるのか?ここからどの方向に一歩を踏み出そうとしているのか?このコンサートは、それらの問いを自問する機会にもなった。

 

相撲のリサーチから、伝説の力士双葉山が求めた相撲について知ることになり、《オペラ双葉山》という構想が浮上した。これは、日本相撲聞芸術作曲家協議会(JACSHA)としてのプロジェクトとなっていった。この構想については、コロナ禍に文化庁助成金をもとに作った以下の冊子にまとめてある。

http://jacsha.com/jacshaforum2020.pdf

また、元力士の一ノ矢さんの以下の分かりやすいレポートも、その構想についてイメージさせてくれる。

「オペラ双葉山」~竹野からの船出 | 記事 | アーティスト・イン・レジデンス | 城崎国際アートセンター

 

《オペラ双葉山》を意識していたわけではないが、ここ数年、ぼくの創作の中で声楽曲が占める割合が激増した(それ以前は、ほとんどなかった)。各地に伝わる相撲甚句のリサーチを続け、地歌箏曲家の竹澤悦子さんのための三味線弾き語りの作品を書き、「千住だじゃれ音楽祭」で、「だじゃれ」と「音楽」の結びつきについて考える中、自分なりに、「歌うこと」、「語ること」について、どう掘り下げていくのか、と自問する。

 

それで、肥後琵琶を始めることにした。これは、肥後琵琶の伝承者になることを目論んでいるわけではない。偶然の出会いによって、琵琶法師の世界を自分なりにリサーチして、その上で、自分なりの声楽について、見直すきっかけにしたいと思ったからだ。村山籌子の童話に基づく合唱曲を書いたことと、肥後琵琶は、自分の中では矛盾しない。自分が今後進んでいく『声の音楽』の漠然としたイメージは脳内にはある。それは、僕自身も体験したことのないもので、でも確かに存在し得るもの。そして、それは昨年の夏に《タリック・タンバン》を作曲した時に書いた「未来の社会や音楽を感じるための祭り」、「神、聴衆、演者の全てに向かう総向芸術」を押し進めた先に存在するものだ。

www.suntory.co.jp

 

本を読んだり、楽器を奏でたりしながら、少しずつ自分の考えを整理し、ようやく、これくらいは文字にできるようになってきた。