野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

人間の才能 生み出すことと生きること/ピアソラナイト featuring 野村誠

今日は、美術館→コンサートホール、という一日だった。

 

まずは美術館。昨日からの滋賀滞在の第3弾として、滋賀県立美術館を訪れ、ディレクターの保坂健二朗さんを訪ね、保坂さんが企画の展覧会『人間の才能 生み出すことと生きること』を観たが、これがめちゃくちゃ面白かった。タイトルは保坂さんが付けたそうで、「ぼく、タイトルつけるの苦手なんですよ」と仰るが、『人間の才能』というタイトルが思い切りがよいと思うし、「生み出す」と「生きる」の両方に「生」という言葉が入っていて、「生の芸術」と訳される「アール・ブリュット」に関する展覧会でもあるので、この副題も良いと思う。ちなみに、この副題は、ぼくのことを言われている気もする。〆切があるから仕事として作品も作るけれども、仕事も依頼もなくったって、日々作ってしまうから。生きることと生み出すことは同義だ。

 

展覧会は、見応えがあり、保坂さんが詳しく解説してくれたり、ぼくも色々質問したり感想を言ったりするので、2時間半くらいがあっという間にすぎ、時間切れになった。不思議な展覧会だったし、面白い展覧会だった。何が?

 

アール・ブリュット」って何でしょう?という問いかけをする導入から、この展覧会は始まる。20世紀の半ばに、デュビュッフェは何をアール・ブリュットと呼び、1970年代にいかにしてアウトサイダー・アートという言葉が生まれ、80年代後半にイギリスで始まる雑誌RAW VISION、さらにはコムデギャルソンとのコラボなど歴史を見せる。すると、だんだんおかしいことに気付かされる。「知識や文化や技術に毒された芸術」と、「汚れを知らない純粋ピュアな芸術」の2種類に分けられる、と考えるのは変だ。100%知識や文化や技術に毒された芸術が存在するとも思わない。全く知識や文化や技術に毒されることない純粋ピュアな芸術も存在するとは思わない。もちろん、(無垢に近い)純度の高さでピュアに表現することへの憧れは理解できるが、、、。

 

さて、その後、次々に出てくる9人の作家のグループ展のようになる。ここだけをパッケージすると、「反復芸術」展と名づけたくなる展覧会だった。

 

細密に町を描く(横10メートルもある!)古久保憲満

突起が数多く飛び出る陶オブジェ(17作品!)の澤田真一

レイヤーになる格子状ドローイング(27作品!)の冨山健二

漢字で平面を埋め尽くしていく喜舎場盛也

布で覆い多数のボタンを縫いつけさらに布で覆い多数のボタンを縫い付けを反復する井村ももか

紙に着色しハサミで切り目を入れ続け毛状にする藤岡祐機

ウォーリーをさがせ」的に様々な人物が隙間なく画面を埋め尽くす鵜飼結一郎

ボールペンの運動し続けた軌跡を描く岡﨑莉望

架空の名前やタイトルでジャケットや表紙をデザインする上土橋勇樹

 

それぞれ作風は違うが、それぞれが行為を反復して、その結果として作品がある。彼ら/彼女らにとって、作品が目的なのか行為が目的なのだろうか?そんな問いは愚問だ。それは、生きることが目的なのか、生み出すことが目的なのか?と問うようなものだ。それぞれの反復を少し注意深く観察すれば、微細な変容、バリエーション、展開が徐々に見えてくる(同じような曲を山ほど作りまくったハイドンやバッハのことも思い出される)。

 

山城大督さん撮影/編集の映像も面白く、作品制作過程、舞台裏が見えてくる。人間が生きていく限り、誰かの影響なしに存在することなどあり得ないので、「何にも毒されない純粋ピュアな表現」は、存在し得ない幻想である。そこに介助者、サポーター、図鑑やキャラクター商品まで含む様々なカルチャーの影響は、色々な形で存在する。

 

福村惣太夫、山崎孝、小笹逸男、吉川敏明が生み出した作品が2点ずつ紹介されるのと並列で、みずのき絵画教室の指導者の西垣籌一が4人に行った「造形テスト」の課題見本と、4人が課題にどのように応じたか、も展示される。さらに、中原浩大の幼児期〜高校生の頃までの絵画や自由研究や作文などが大量に展示されている。この展示のどこかまでがピュアで、どこかからが作為的なんて、線引きできるだろうか?どこにも境界線なんて引けない。つまり、アール・ブリュットと不純な芸術に二分する境界線など、どこにもない。では、アール・ブリュットって何?展示は問いかけてくる。

 

展覧会の最後に、観客自身が結論を書き込む空欄が用意され、結論は観客に委ねられていた。ぼくは考えを整理する時間もなく、空欄に記入することもなく、保坂さんと色々話し込んだ後、豊中市立文化芸術センターへ向かった。(だから、今ここにざっと感想文を書いた)。

 

コンサート『ピアソラナイトfeaturing 野村誠』の本番だった。弦楽器やアコーディオンの音色を豊かに響かせてくれるホール。リハーサルに駆けつけると、演奏は格段に熟成されていて、演奏者たちが色づけした新しい音楽がそこにあった。自分が作った音楽なのに、新しい音楽と再会する。リハーサルだけでも幸せすぎる時間だった。

 

コロナの状況がこの状態で、満席に近い観客の方々が集まってくださったのは、本当にありがたい。1曲目は、弦楽四重奏(荒井英治さん、巌埼友美さん、永松祐子さん、北口大輔さん)による野村誠牛島安希子《オルガンスープⅡ》。色彩豊かに音域も幅広く歌いまくる弦楽四重奏。弦の世界を堪能した後、大田智美さんのアコーディオン独奏でピアソラ3曲で、ピアソラ節を満喫。休憩後は、弦楽四重奏ピアソラ。同じ作曲家なのに、アコーディオンで聴くのと弦で聴くので、印象が変わるのも面白い。それにしてもピアソラの音楽は、声もなく歌もないのに、心に直接訴えかけてくることができるのだろう?

 

そして、最後に、ここまでの出演者全員+コントラバスの村田和幸さんが加わった野村誠アコーディオン協奏曲》。2008年に作曲し、2009年にドイツで初演して以来、13年ぶりの上演。20分以上の長大な旅のような曲。演奏者は冒頭で神経を使う難曲。しかし、素晴らしき6人の演奏家たちのエネルギーは、本番になって力強くシンクロし始め、相互作用で何倍にも膨れ上がっていく。弦とアコーディオンの音色が溶け合い、お互いの色を引き出し、6つの楽器以外の音が空から彼方から聴こえてくる。客席の椅子の上に静かに座りながら、心の中では猛烈に乱舞し、宇宙の果てまで浮遊し、いつの間にか自分が誰かに変容し、祈っていた。曲は永遠に長くあるようで、一瞬であったかのように、最後の一音まで集中が途切れることがなく進んだ。気がつくと拍手だった。コロナでなければ、演奏者全員と目一杯握手をし、目一杯抱きしめたい気分だ。

 

アンコールに、新曲《ピアソラセブン》を演奏してもらった。この曲は、正真正銘の世界初演ベートーヴェン交響曲第7番のフレーズが入っているから、セブンなんだけど、6人の演奏者にぼくを加えてもセブン。2年前、コロナが始まった時に、日本センチュリー交響楽団定期演奏会が無観客配信になって、開演前に行うプレパフォーマンス&トークで、大田智美さんと《Beethoven 250》を演奏した。その後、チェロの北口大輔くんと鈴木潤さんと《Beethoven 250》を名古屋で演奏した。昨年は、センチュリー響のメンバーたち+大田智美ちゃんと野村誠作品集の収録も行った。2年経って、相変わらずコロナだけれども、大田智美とセンチュリーが一緒になって野村作品を演奏してくれていて、しかも音楽の深いところで手を握り合っているかのような演奏で、それは心底嬉しいことだった。接触できない時代に、音で握手!!!

幸せな夜だった。本当に素敵な演奏をありがとう!!!!!

(そして、いつも無茶ぶり企画をする柿塚拓真さん、ありがとう。無茶ぶりするけれども、できあがる音楽を心底楽しんでくれるから、ぼくらは柿塚さんの無茶ぶりを受け容れる。そして、柿塚さんの後を引き継ぎ、公演の裏方を取り仕切ってくれた本城聖美さん、ありがとう。)

 

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