野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

愛知大学の授業

本日は、豊橋まで日帰り遠征。愛知大学の授業に出かける。

 

6月にZOOMでリモート授業で出会い、7月に、一度、対面での授業で音を出したり体を動かしたりした。それ以来の再会。

 

授業が始まる。今日は、上田謙太郎先生のリクエストで、野村の考案した「しょうぎ作曲」をやるけれども、それ以外にも色々やるつもり。ところで、みんなは今日、何をしたい?尋ねると、学生たち沈黙。なんでもいいから言ってくれると参考になるんだけど、、、。しばらく、長い沈黙の後に、勇気を持って口火を切った一人が、授業で見たお年寄りとの音楽に関心あり、色鉛筆の山があるのにも興味あり。別の一人が、楽器鳴らしてみたい。では、楽器を鳴らしてもいいし、色鉛筆を使ってもいいし、どちらもしなくてもいい、とぼく。それから、楽器を手にとって音を出す学生、色鉛筆を手にとって絵を描く学生。印象深かったのは、音を出しながら別の学生とのやりとりが多かったこと。絵を描きながら別の学生とのコミュニケーションが多かったこと。各自が個人作業になって、まったく交わらないこともできる。でも、一枚の紙に、両側から絵を描いたり、クラスメイトの似顔絵を描いたり、楽器でちょっかいを出したり。こうやって自由に楽器や絵をやってもらうと、7月よりも断然関係性が親密になっていることに気づかされる。ぼくは、そうした学生たちの親密な輪の外にいる外部からの存在なのだが、少し場が混沌としてくると、少し距離が縮んだり、楽器でセッションに加わったり、絵を覗き込んだり、少しずつ仲間に加わることができる。スリットドラムの面白いフレーズに触発されて、ピアノも少し弾いた。

 

その後は、グループ分け。グループ分けの仕方を学生に尋ねたら、血液型と答えが返ってきた。A型が半数を占めたので2グループに分かれてもらい、2番目に多かったB型が1グループ、少数派のO型とAB型が混成した1グループの4グループに分かれてもらう。そして、それぞれのグループに、先ほどの自由セッションの時間に誰かが描いた絵を一枚渡し、それを楽譜として解読して音楽にしてもらう無茶振り。さらには、それをスタジオ内のスペースを活用して上演してもらった。動物の絵に触発されたO型+AB型が、枠を活用した人形劇のようになった。絵から清々しさと余白の多さを受け取ったA型が、四方から囲む儀式のようなパフォーマンスを行った。しりとり絵画を音で体現したA型は、打楽器とヴァイオリンの対話となり、クラスメイトの似顔絵に安らぎを感じたB型は眠りを誘う音楽を奏でた。4つとも違った個性であり、違った解釈であったところが面白く、この4つを同時に上演もやってみた。

 

休憩後は、しょうぎ作曲。どういう順番でやる?と尋ねると、学生から背の順という返答があった。今日の授業は一貫して、ぼくが質問を投げかけて、学生が返答することで進んでいく。背の順に並ぶと、自分がクラスの中で低い方であるのか高い方であるのかを初めて認識して、驚く学生もいた。かつて、リモート授業の時には、お互いの身長がわからなかった。実際に会ってみると、実は小柄だったり、大柄だったりして、パソコンの画面上とは印象が違ったりする。しょうぎ作曲は、どんどんグルーヴしていき、色々な表現を生み出していく。しょうぎ作曲の不思議なところは、一人一人がやることは、決して大した変化ではないのに、それが蓄積していった結果、気がつくと強烈な世界が立ち上がってくることだ。一人一人は微力であっても無力ではない。微力の積み重ねで、少しずつ風景が変わっていき、大きな転換が起こる。こうした体感を持つと、小さな一石を投じることの可能性を感じる。あと、各自の楽譜の書き方が統一されていないで多様であること。それぞれが同じやり方でなく共存していること。これも、しょうぎ作曲の特長。

 

そんな風に3時間の授業を終えて、京都まで帰って来る。久しぶりの新幹線だった。椅子の背もたれをたおしていいですか?と後ろの人に聞くと、イヤフォンしていて、無反応。マスクをしているとは言え、大声で「たおしていいですか?」と叫ぶのも気が引ける。しかし、何も言わずにたおすのも嫌だ。仕方なく、やや大きめの声で何度も、顔を見ながら、声をかけるが気がつかない。何度目かの試みで、ようやく気づいていただくが、一言無愛想に「はい」と言われる。何か忙しい用事の最中だったのかもしれない。コミュニケーションは難しい。

 

京都駅。昨年だったら、京都駅では外国語しか耳にしないくらい外国人観光客が多かったが、今は日本語ばかりが聞こえてくる。京都の観光客は、例年に比べて何割減ったのかなぁ。