野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

ホセ・マセダ生誕100年記念のシンポジウム2日目

朝、タクシーが全くつかまらないので、電車を2本乗り継いでいくことにする。最初の電車は、まずまず問題なく終点まで行ける。次の電車は、ホームに溢れんばかりの人がいて、来る電車にも超満員に人が乗っていて、毎回少しずつしか乗れないので、6、7台電車を見送るまで、満員電車に乗れませんでした。マニラのラッシュの通勤電車に乗れたのは、良い思い出です。

というわけで、電車をおりて、徒歩で会場まで歩いていき、最初の基調講演には遅れてしまい、途中から。フランスからのNicole Revelのデジタル時代の民族音楽学でデジタル・アーカイブの話。休憩後、作曲家のConrado del Rosarioが主宰する竹楽器楽団Sunlag Ensembleの演奏。昨年は子どもを集めて2ヶ月でやったプロジェクト。今年は大人でやったそうで、学校の先生だったり、アーティストだったり、色々な人がメンバー。15人の合奏。コンラドが指揮。竹の笛、竹琴、竹のスリットドラム、バリンビン、トガトンなど。テクスチャーがどんどん変わっていき、変化に富んでいて面白いが、学会に参加している人々の多くがお茶しながら雑談して、全然聴いていないのが、驚き。音楽はBGMなのだろうか?終わった後、コンラドに絶賛し、色々話を聞き、お互いのCDなどを交換する。

その後、パネルディスカッションで、キュレーターのDayang Yraola、ノイズアーティスト自称ノイジシャンのTad Ermitano、そしてサウンドデザイナーの森永泰弘さんが登場。学者ではなくアーティストのトークは視点が違って面白い。森永さん曰く、ホセ・マセダの50年代とかの録音のクオリティがあり得ないくらいよく、機材も最高のものを使っていた、との驚きの発言。基本、耳が良かったのでしょう。当たり前ですが。

昼食時に、インドネシアからの作曲家Franki Radenと話し、彼が佐久間新さんの家に泊まったことがあることを知り、でも、それは驚くべきことではない、とも思う。午後のパネルディスカッションで、著名な民族音楽学者/作曲家のマントルフッドの息子でありバリ音楽研究のMade Mantle Hood、フィリピン大学でフィリピンの笛の音律の研究のJose Buencosejo、フィリピン大学で作曲家のJonas Baesが登場。ホセ・マセダの「ウグナヤン」という1973年の作品があり、20のラジオ局が別々の竹楽器の音源を流し、皆がラジオを持って外に出て、ラジオをどれかの曲に合わせることで、町中に様々な竹の音が響く作品がある。この作品の背景について、当時、マルコス独裁政権は、ホセ・マセダの活動を援助していて、国民の一体感を生み出すために、マセダの作品を活用しようとしていたと思う、との意見あり。一方で、3人以上で公共の場で集まることが戒厳令下で禁じられていた際に、逆に国家に認められるプロジェクトというのを利用して、マセダが敢えてやっていたのではないか、との意見。つまり、人々のつながりを生み出すことで、民主化への足がかりへ、という意図がマセダの中にあったのではないか、と言う。音源の中で、「ターーーーンギス」という声があり、これは、タガログ語で涙を意味する。マセダの隠れたメッセージがこうした70年代の作品の中に読み取れる、とも言える。独裁政権の中で、アーティストがどうやって表現し、社会にメッセージを発していくかについて、大きなヒントがある。

最後のパネルディスカッションでは、フィリピン大学名誉教授のCynthia Zayas、タイの音楽教育学者でマセダに学んだManop Wisuttipat、インドネシアの作曲家Franki Raden、タイのPrasit Leosiriponが、師として音楽家としてのマセダの思い出を、マセダの娘さんと結婚したアメリカ人ベーシストのKyle Heideは家族としてのマセダの思い出を語った。フランキが70年代にボルネオのダヤック属を訪ねていく時に、ホセ・マセダ、ヤニス・クセナキス武満徹が同行した貴重な話、Cynthiaがマラリアになったときのマセダの応対の話、Kyleの家族の視点では、ホセ・マセダは、朝は縄跳びをし、夜は散歩が日課。朝には、FMでクラッシックを聴き、夫婦でピアノ連弾をする、などの話も貴重な話だった。

休憩時間にアナンから、彼のコープァイというグループの最新のCDをいただき、さらにASEANの若い音楽家を集めたAsian Traditional Ensembleの資料ももらった。日本でも公演やコラボレーションできないかなぁ、と言う。是非、どこかで実現させたいものだ。

会場を移して、ダヤンがキュレーションした展覧会「Attitude of the Mind」の会場へ移動。マセダの譜面、音源、フィールドノートや写真などの展示と、若いアーティストがマセダにインスピレーションをうけて作った新作インスタレーションが共存する展示。マセダを知る世代と知らない世代を結びつける企画であり、現代音楽や民族音楽に興味がある層と、ノイズやサウンドアートや現代美術に興味がある層を出会わせようという意図がある。とても良い展覧会で、日本でもやって欲しいし、世界各地に巡回して欲しい。マセダの作品を見ながら、人々と語り合うのも嬉しい。2000年のサンフランシスコでの「ウドゥロウドゥロ」練習風景でのマセダや、高橋アキさんが映っている映像もある。

そして、6時に、「カセット100」の上演が、1971年に初演した場所、文化センターの1階で行われる。ぼくは1990年に京都で体験したことがある作品。今回は、カセットではなく、MP3プレイヤーにメディアは変わっているが、100人が30分間音源を鳴らしながら空間を移動。振付家による振付けつき。音が空間を凄い力でゆらし始め、人々が歩いたり行列したりすると、それは、マルコス独裁政権時の1971年に、まるで無言の音響によるデモが起こっていたことをタイムマシンで見ているかのような錯覚にも陥り、そして、2階、3階とあがっていき、空から天井から音が降り注ぎ、それは、雨であり、スコールであり、声であり、祈りであり、願いであり、誓いであり、響きであり、ここで体験していることの喜びを思う。作曲家のラモン・サントスと目が合い、お互いに笑顔で、満面の笑顔で、そのことを確認し合う。作曲家のジョナスともコンラドとも目が合い、お互い何かを感じてうなづく。アナン・ナルコンが、ぼくの顔とサントスさんの顔を交互にビデオでとっている。不思議な共鳴が起こる。恩田晃さんは記録として映像か写真かをとっているし、田口さんはじっとこの場に立ち合っている感じだ。若い人々を中心に様々な世代のパフォーマー100人が1階に戻ってきて激しく動き回り、プレイヤーの音響だけでなく、パフォーマーの足音も凄い音量になる。そして、最後の最後で、空から新聞紙がバサバサバサと大量に降ってきて、上演は終わった。フィリピンに来てよかった。

夕食で、フィリピン大学の民族音楽学センターの所長のVerne de la Penaさんと隣になったので、やっと色々お話できた。彼も12月に大阪
の民博と東京大学に来る予定があるそうだ。また再会したい。

帰りのタクシーは、回り道で料金を多くとられることになっても、決して腹を立てずに、その分タガログ語を教えてもらおう、と思って乗る。案の定、回り道と渋滞でなかなかホテルに戻れなかったが、その代わり、タガログ語の授業をいっぱいしてもらい、安い授業料で教えてもらえて有り難いと、終始笑顔で感謝しながら交流を楽しむ。

明日は、シンポジウムの最終日。みんなでマセダさんの家に遠足だ。