野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

ホセ・マセダの生まれ育った町へ

ホセ・マセダ生誕100年記念シンポジウムの最終日。本日は、ピラへのツアー。ピラは、マニラから南へ100キロほど行ったところにある。地図で見ると、マニラからバイ湖という湖を挟んだ南南東にある。ピラは、作曲家のホセ・マセダが生まれ育った街で、スペイン統治時代の影響を残すフィリピン建築が多数残っている地域だという。マニラ市内の大渋滞を縦断するのに1時間半くらいかかったあと、さらに1時間半ほどかけて、ピラへ行く。

バス旅行でいろいろお話ができるのも楽しい。

ピラで、教会を見学している時に、鳥の鳴き声が外から聞こえてくる。そして、教会に併設されている学校の子どもの声も聞こえてくる。アナン・ナルコン(民族音楽学者)が言う。「仏教の寺院も、イスラムのモスクも、キリスト教の教会も、音風景が似ているんだ。どこでも、鳥の鳴き声が聞こえて、子どもの声が聞こえる。タイの仏教寺院も、たいてい幼稚園が併設されていて、子どもの声と鳥の鳴き声が聞こえるんだよ。宗教が違っても、音は同じなんだ。面白いと思わない?」そして、アナンは、「千住の1010人 第2弾」のアイディアを思いついた、と構想を語り始める。やはりホセ・マセダと接していると1010人の音楽を、またやってみたくなるから、面白い。

ホセ・マセダの娘さんの案内で、ホセ・マセダの生まれ育った家に行く。今は、学校になっていて(おそらく女学校)、制服をきた女の子に何人も会う。マセダの娘さんが、ここには壁はなかったの、ここは祖父の部屋だった、などと、説明をしてくれるので、その言葉を頼りに、ホセ・マセダの幼少時代を想像する。アナンは、奥の方でオーディオ機器を見つけて、写真をとっている。それにしても、今月は、シンセサイザー作曲家の冨田勲が幼少期を過ごした家にも行って、ホセ・マセダの育った家にも行った。不思議だ。そのことを伝えようと思い、アナンに、よもや知らないだろうと思い、「冨田勲を知っているか?」と尋ねると、「もちろん」と返事が返ってくる。彼の博識ぶりには、本当に驚かされる。「冨田勲展覧会の絵の編曲や、惑星の編曲などに、ぼくは当時、凄い影響を受けたんだよ」とアナン。一体、君は、インターネットもなかった時代に、バンコクにいて、どうやって、日本のシンセサイザー作曲家のレコードを入手していたのか?と、ぼくは驚嘆する。アナンは、韓国で冨田勲と同じステージに立ったことがあると言う。本当に、アナンは凄い。

アナンが「マコトの育った家は、大きいの?」と聞いてくる。なんでそんなことを聞くのかと思いきや、「マコト生誕100年イベントの時に、そこを訪ねないと行けないからね。腰の曲がった100歳の佐久間新も、ヨボヨボになって来るんだ、きっと。」とか笑いながら語る。

フィリピン大学民族音楽研究所の所長さんが、かなり真剣な表情で、「スペイン統治時代以前に、ホットドッグっていうのは、中国人を通してフィリピンに伝えられた。」と言うので、いくらなんでも、この人はボケてるわけじゃないよな、本気だよだぁ、と思って、思わず「えっ、本当?」と言うと、大慌てで、「冗談、冗談、、、、、」と笑いながら、ぼくの肩を抱いてきた。愛らしい人たちだ。

昼食でフィリピン料理を色々教わり交流して後、マセダ家の墓参り。といっても、ホセ・マセダの墓はマニラにあり、今日は、ホセ・マセダのご両親や兄弟が眠るお墓。ホセ・マセダが亡くなる数年前に奥さんが亡くなったので、ホセは奥さんの墓をマニラの自宅の近くにつくり、頻繁に会いに行けるようにしたかったとのこと。そして、奥さんの眠るお墓と同じ場所に、ホセも眠っているとのこと。奥さんを本当に愛していたのだ、という話。

マニラの酷い渋滞を3時間くらいかけて縦断して、夕食で最後の親交を深めて、ホセ・マセダとの濃厚な3日間が終わり、ホテルに戻る。親友アナンと今回も濃い時間を一緒に過ごせたことは喜びだ。

明日は、のんびり過ごそう。