野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

他力について

2004年11月20日に書いた日記から、引用します。仏教用語の「他力」と「安心」についてのやりとりです。

「表現=表に現わす」ではなく、「表現=表に現れる」という考え方を、橋本さんは、

「それは、仏教で言うところの、自力から他力、っていうことなんや。自分でやろうとしてしんどいのが、自分でやろうと思わないと、どうしたらいいかが、勝手に見えてくる。そして、この状態のことを、安心、と呼んだんや。」

と説明してくれた。

「つまり、野村さんは、人から見ると、いつも危ない橋を渡っているように見えるけど、それが唯一の方程式で、その道を選ぶからこそ、たどり着ける風景があるし、その道を選ぶことが、本人にとっては安心なんや!」

このフォーラムも、危ない橋を渡りながら、安心で行きたいし、野村さんはそうしてくれるだろう、それを楽しみにしているよ、と橋本さんの目は訴えていた。

自分で道を切り開こうとして、もがいていても何も生まれてこないのに、自分の心を開いて、周囲にリスペクトを持って、待っていれば、自然にメッセージがやってくるのです。これと同じことを、ジャワの即興舞踊家の故ベン・スハルトさんは3つの即興の原則として、語っていたそうです。

http://d.hatena.ne.jp/makotonomura/20110607

そして、京都での生活を開始すべく、帰国後の京都での初ライブを終えた途端、今まで、ぼくの宇宙には一度も登場して来なかった木ノ下歌舞伎の木ノ下裕一さんが、突然、登場して来たのです。遥か昔からの知り合いであったかのように、現れてきて、まるで、ぼくがこれからやる仕事への道筋を示すかのように、メッセージを届けてくるのです。

木ノ下さんだけではありません。12月の木ノ下歌舞伎で演出をする白神ももこさんや、ダンサーの富松さんなどが、会おうとしなくても、偶然、町中で遭遇してしまうのです。

白神さんが「とりあれず、あなたまかせ。」と言ったのも、これは、「他力」ということです。自らのエゴを押しつけていく芸術ではなく、自らのエゴを他者の中に発見していく作業としての芸術。それは、コミュニケーションであり、共同作業であり、交流であるはずです。

おじさん世代のアーティストの多くが、自らの確立したスタイルに縛られ、エゴに苦しみ、無自覚にビジネスライクになっているのを横目に、無自覚に他力な若者たちが、無責任という責任感で動き始めている。そうした場に、連日、遭遇するために、ぼくも他力でおります。世界を変えるために、他者の中に自分を発見する他力です。世界を変えるために、他者の力を尊重し信じる他力です。

そして、雑談しているつもりが、いつの間にか、日本の古典芸能やジャワの古典芸能の勉強になっていったりするのです。このまま、「あなたまかせ。」に進み、何かが見えてくる、確信があります。そのために、実績やプライドやしがらみなど、捨てられるものは一気に捨てて精算していこうと思います。こうして、少しずつ、世界が変わっていくのです。