野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

白々しい世界を超えて〜木ノ下歌舞伎を観劇して

明日から台湾で、今日は慌ただしい。様々なメールに返信、打ち合わせに出かけ、「ポーコン ーヴァイオリンとポータブルな打楽器のための協奏曲」の譜面を完成、関係の方々に発送し、楽しみにしていたアトリエ劇研での木ノ下歌舞伎の公演を見に行きました。関係者の方々とご飯を食べ、深夜に帰宅後、助成金関係の書類(英文)を書き、明朝出発のための荷作りをしようとしております。

それでも、この感想文だけは書いてから出国したいので、荷作りを後回しにして、冷える京都の深夜2時の自室にて、これを書きます。

まずは、短時間で書かなければいけないので、乱暴ですが、結論から先に書きます。本日の観劇は、白々しいなぁ、と思っているぼくが、白々しさを越えるところに導かれた、という体験でした。それは、つまり、こういうことです。

演劇を見に行く時、我々は、それはあくまでフィクションなんだ、というカラクリを知っています。また、今日であれば、歌舞伎を題材にして現代版に焼き直している、ということも知っています。舞台の俳優は演じているし、照明や音響や裏方がいる、そして、ぼくらは観客を演じている、ということも大前提です。みんなそれを承知の上で、劇場に足を運び、ちゃんと、フィクションじゃない振りをして、登場人物に感情移入したりしながら、立派な観客を演じて、舞台を成立させているわけです。でも、ぼくは、しばしば、白々しいなぁ、と冷めた目で、一歩引いて、白けてしまうことも、多いのです。

実際の日常世界の中には、巧妙に嘘や芝居が組み込まれていて、政治家や企業をはじめとした様々な思惑を隠蔽する芝居に満ち溢れています。そうしたリアルを生きている我々にとって、みんなが承知のフィクションでの演技に、一体どんなリアリティを感じたら良いのか?劇場に見に行くことに、演劇を観劇することの価値や尊さって、あるのか?で、そうした白々しい演劇の未来は、あるのだろうか、とさえ、思えてきたりもすることもあるわけです。

でも、ぼくは、今日の舞台は、白々しいことを見ないふりするのではなく、白々しいことを敢えて意識して、これは、所詮演劇ですよ、これは、所詮歌舞伎の再解釈です、現代と無関係の昔の話ですよ、と、白々しいことを隠蔽しないで、そこに光をあてるをします。そして、気がつくと白々しい世界を超えていく、ということを体験になりました。で、気がついたら、江戸時代の戯曲だと思っていたことの中に、現代的な問題があったということに、出会わされて愕然とするのです。あ、「隠蔽されているものにこそ目を向けよ」というメッセージを、戯曲の中から読み取っちゃって、そのことを本気でやろうと思ったんだ、この人たちは!

もっと、詳しく書きたいけど、時間切れなので、ここまでにしておきますね。是非、見に行って下さい。

あと、もう一つ期待したいこととして、今日、思ったこと。俳優の強度と自立と可能性について。本日の出演していた俳優の方々、意識も高いし、才能も溢れる方々だと思います。しかし、プログラムに作文するのは、監修の木ノ下裕一であり、演出の白神ももこで、俳優の書いた演劇論が出てこない。アフタートークに出てくるのも、木ノ下、白神と、別の演出家だったりして、俳優は語らないのです。そんなの普通な気がします。

しかし、この「木ノ下歌舞伎」というプロジェクトが、さらに進んでいく上でも、俳優やダンサーが舞台上で演じるだけでなく、自らの演劇論をプログラムに書き、アフタートークで演劇論を語り、戯曲と演出に対して持論を語って良いのではないか、と生まれて初めて思いました。俳優は戯曲と演出を最も批評できる存在だと思うからです。そして、俳優の批評力こそが、「木ノ下歌舞伎」という野心的なプロジェクトを、より進めていく上で、必要なのではないか、と思いました。そういう21世紀の俳優像を初めて意識化させてくれたのが、本日の舞台でもあります。だって、俳優が素に戻って喋ったら、興ざめと思うようなフィクションじゃなくって、白々しいことを前提にしているんだから、俳優が舞台の直後に演劇論を語っても成立する、そういう舞台なんだと思いました。

12月11日まで京都で公演。来週は横浜公演です。興味を持った方は、行ってみて下さいね。

http://kinoshita-kabuki.org/

おつかれさま。わーーー、3時だー、荷作りしまーす!