野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

作為のなさ

BankART Schoolの8回シリーズの講座「ポスト・ワークショップ」の4回目。

なぜ、合宿はよくて、集中講義はよくないのか、
前回の野村幸弘さんの話をもう一度考えてみる。

前提として、人が集い創作する場としてのワークショップでは、

参加者が主体的に関わり、自ら発見していくプロセスそのもの

が優先されるので、

プランされた通りに物事が進むことよりも、偶発的な発見が起こることを推奨される

つまり、プラン通りに進まないことが、大前提。ワークショップが、結果よりもプロセスを重視する、という命題を掲げるのは、偶発的な発見を推奨しすぎると、結果が保証できないリスクがあるが、それでも、偶発的な発見を最大限に優先する、という哲学を打ち出すために、プロセス重視と言われているのだと思う。

で、集中講義のようなスタイルの場合、偶発的な発見をしばらく寝かせて置いたりする時間のゆとりがない。その偶発的な発見がさらに、他の参加者のアイディアを刺激して相互作用が起こったり、ということが起こる余白の時間が少ない。また、急に機材や道具が必要になった時にも、対応できなかったりするので、偶発的な発見が生きにくい。

で、ワークショップでは、偶発的な出来事が起こりやすい場を作ることが準備であり、具体的な進行などは偶発的な出来事を優先し即興的に行う。そして、その偶発的な数々の瞬間の良さを、見逃さないように、ポスト・ワークショップで展開する。

ところが、ポスト・ワークショップを行う場合には、ワークショップを何らかの形でドキュメント(記録)することが必要になる。ポスト・ワークショップは、このドキュメントを起点に出発する。そして、ドキュメントは、誰がやっても同じになるのではなく、ドキュメントする人のセンスや個性により取捨選択されるものである。ドキュメントはクリエイティヴな活動である。そして、ワークショップ(やパフォーマンス)は生のライブな体験なので、ドキュメントを介しても実際のワークショップを本当の意味では体験することはできない。では、ドキュメントは不要なのか?このドキュメントは、ライブの体験とはまた別の新しい体験なのだ。

では、このドキュメントをどう活かすか、というのが、ポスト・ワークショップのテーマになる。

それから、一つの質問。「作為のない表現」について。子どもとか素人とかが参加するワークショップを見ると、そこで気になるのが「作為のない表現」ということで、それとか、「アウトサイダー・アート」だとか、そういうことをどう考えるのか?という質問。

仮に「作為のない表現」をする人と、「作為のある表現」をしている人の両方がいるとして、まぁ、こんな風に世界は二分化できないんですが、そうやって二分化している視点が「インサイダー・アート」を前提とする「アウトサイダー・アート」ということになるのだと思います。それよりも、「作為のない表現」をしていることに価値を見出す人と、価値を見出される人が共存する現場があれば、それはコラボレーションの始まりであって、インサイドもアウトサイドもなくなるはずです。では、このインサイドとアウトサイドを分けている境界に窓を開けて風通しをよくするには、どうすればいいか?これも、ポスト・ワークショップのテーマなわけです。

ということで、前半4回が終了しました。これから後半の4回ですが、ますます深みにはまっていけると思います。来週は、吉野さつきさんをゲストに迎えて、さらに、再来週は、各自がワークショップのドキュメント(何らかの欠片=写真、映像、曲、言葉、、、、など)を持ち寄って、何が面白いかを話し合います。