野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

東京ノートを見た

Hull大学で、平田オリザ作、青年団による「東京ノート」という演劇を見ました。平田作品も青年団も、初めて見ました。
この作品を東京で見たら、また全然違った印象を持つのかもしれませんが、イギリスで字幕を見ながら日本語を聞きながら見た印象で感想を書くとすると、

多分、平田氏は、演劇というのはフィクションである、という大前提を大前提として持っている上で、
「白々しいフィクション」ではないフィクションをやろうとしているのだ、と思った。だから、ある意味、今日見たフィクションは「白々しくないフィクション」で、それはフィクションであるのかどうかも分からなくなりそうなフィクションでした。敢えて呼ぶなら「胡散臭いフィクション」(悪い意味ではありませんが、敬意を込めて、今思いつく表現で)とも言うべきテイストを醸し出していました。

つまり、(フィクションだという前提で進めているのに)観客の多くはフィクションだという大前提を忘れさせられてしまっているかのようなのです。あたかも、イギリスの人が、現代の東京というのは、きっとあんな感じなのだ、と思い込まさせられるような、そういう視点で見ていう自分がいるのです。東京ノートというタイトル自体にも引きずられます。架空の地名ではなく、東京という地名を出していて、しかも、劇団も演出家も、実際に東京から来ているので。

演じられている作品は、平田オリザの戯曲で、全てフィクションで創作で、どこにもない風景で、あれは世界のどこにも存在しない平田オリザの創造した世界です。それは、明らかにクリエイションです。にも関わらず、そのことを、少なくとも観客の一人であるぼくは忘れそうになったし、しかも、自分が東京に住んでいることも忘れそうになって、イギリスから、極東の日本という国の東京という場所はこうなっているらしい、と異文化を学ばさせられるように、劇を見た。劇を見ているのではなく、ある世界を覗き見しているような感覚。そして、そのことについて劇の中で、「カメラ・オブスキュラ」として、平田オリザ自身が語っているわけですが、、、、。

平田オリザさんの作品を評して、ナチュラルな芝居とか、リアルな演劇とか、静かな演劇と呼ぶ人がいるらしい、と聞いた。でも、平田作品は、ナチュラルと程遠いし、リアルと程遠いし、静かとも程遠い、極めて、どこにもあり得ない架空の風景であり、それが平田オリザの世界として厳然と存在しているのに、それをナチュラルとか、リアルという次元でかたづけてはいけないと思う。しかし、そこに、ナチュラルやリアルであるかのような振る舞いをしているところが、このフィクションのたちの悪いところです。これを海外で上演するという行為自体が、不思議なパフォーマンスにも思えた。

アフタートークでの平田氏の受け答え自体が、なんだか、「東京ノート」のテイストで演じているようであり、俳優ではなく演出家として舞台に立っているようにすら見えた。そもそも、平田氏自身が英語を話すこともできるだろうに、一言も英語を話さずに、徹頭徹尾、日本語で答え続け、通訳を入れた。この人は頑固だと思う。

これは、意図していることなのか、無自覚なのか、それも分からないけど。トーク終了後のレセプションが、第3幕のような感じで、そこでもフィクションが続いているように感じたし、青年団の俳優の振る舞いは、演出されているかのようだった。レセプションという状況や枠組みを作った時点で、そして空間や時間を設定した時点で、そこにいる人間を選んだ時点で、それは、十分に演出されているわけです。

では、フィクションについて考えると、逆にリアルとは何か?と考えさせられもします。だって、アフタートークも、レセプションも、全部、演劇になってしまっているのだから。フィクションとリアルの間に境界なんて、存在しないのかもしれないし、大きな壁として現れるのかもしれない(藤浩志さんのヤセ犬の話が好例です)。そのことと向き合うのが、演劇という行為なのだろうと思いました。

もう一つの大きな壁、言語の壁、英語と日本語の言語の境界は痛切に感じられたのも確かで、字幕と翻訳の難しさに、演劇の困難さと可能性を感じました。平田オリザさんは、その大きな壁を前に、悪戦苦闘して模索しているけれども、その模索を苦しんでいるというよりは、むしろ楽しんだり面白がったりもしながら、少しずつ前に進んでいるという感じに見えます。だって、どう考えても海外公演をやるのに向かない作品を、海外向けにアレンジするわけではなく、できるだけそのままやっていこうという姿勢自体が、作品自体を信じている姿勢で、とてもいいスタンスだと思います。自分の書いた戯曲を信じているのだと思う。非常に好感を持ちました。

と、こうやって、ぼくが書いている昨日の出来事の日記も、平田オリザ的なフィクションなんですけどねー。演劇の面白いところは、やはりフィクションとどう付き合うかということで、白々しさの方向に振り切れれば胡散臭さはなくなるし、白々しさを排除すればするほど、別の胡散臭さが出てくる。フィクションとは、本当にそういうもので、我々はフィクションが好きなのです。そして、芝居の中でも、平田オリザは、「現実のものよりも、それを描いた絵の方が素敵って、何でだろう?」という問いを登場人物に言わせて、「わかんない」と答えさせています。「わかんない」からこそ、彼は作り続けるし、現実よりも素敵だと彼が感じる絵(演劇)を、描き続けるわけです。そう、彼の作品の中で登場人物が語っていることの多くは、彼の演劇観や世界観について語っていましたし、、、、

ぼくは、平田オリザを応援していこうと思った。そして、青年団のみなさま、おつかれさま。