野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

シンポジウムと舞台の解体

午前中はフルボディのワークショップ。知的障害の人が、ワークショップリーダーを務めているのは初めて見た。よかった。

午後はシンポジウム。
これについては、近日中に詳しく書きます。
すごいことになった。

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少しずつ内容を更新します


このシンポジウムは、休憩なしで4時間強やってしまいました。パネリストの川口淳一さん、高嶺格さん、野村幸弘さん、お客さんの皆さん、スタッフの皆さん、本当にお疲れ様。

本当の意味でリアルな議論が起こり、その場で何かが創造されていく場を作りたい、と考え、事前に色々頭の中でシュミレーションし、様々な可能性を考えた上で、臨みましたが、思った以上に大変でした。

川口さんのプレゼンの後に、高嶺くんが「負けず嫌いなので」と対抗意識を燃やしてくれたところを、もっと掘り下げなかったのは、残念。そこまで、頭が回らなかった。
高嶺くんは、川口さんの裏方にフォーカスを当てるプレゼンの後に、自分は裏方には・・・と言いながら、マンガン記念館での経緯を日記として展示しているのは、ある意味、裏方を見せているというか、そもそも裏も表もないというか。それに、実は、高嶺くんのやったコンサートで、楽屋の映像を舞台上で流し続けてたのがあったり、舞台袖にカメラを仕掛けて、その様子を舞台にプロジェクションしたケースもあった。でも、そんなこと、すっかり忘れていて、シンポジウムの時に話題に出せなかったのが、残念。

高嶺くんの作品を舞台上で見て、言葉を失った。彼の作品を言語化する気が失せたし、それを言葉なしで呆然として味わっていたかった。司会者として言葉にするのが、本当にうんざりした。でも、シンポジウムだ。どうしていいものやら。言葉を失ったぼくは、客席に降りたり、ピアノを弾いたり、言語から離れて、しかし、なんとか言語に戻れるように、必死で悪戦苦闘した。

暗転の中、高嶺くんが粘土を出し、川口さんも粘土をこねた。このシンポジウムに粘土を用意しようという案はあったが、自然消滅していた。ところが、本番当日、高嶺くんはこっそり買い物に行って、こっそり準備していた。

野村幸弘さんが、舞台を蹴飛ばし「この舞台が出っ張り過ぎ、これを解体しよう」という意味のことを言った時、ここが大きなターニングポイントになった。幸弘さんの心情は以下のようなものだったらしい。「マコトさんは、観客にも出演者にも、強烈なプレッシャーを与え続けて、居心地の悪さを作って、ここから脱出する何か面白いことをするように強いた。それに堪えられなくなって、行動を起こすしかなかった」

ファッシリテートとは、「促進する」、「容易にする」、「困難を取り除く」という意味だが、ぼくは敢えて「困難な状況を作る」。ところが、幸弘さん曰く、困難な状況にぶちあたることで、みんなが必要以上に考えたりして、自由に表現できるようになったりするから、そういう意味で、野村誠は「容易化している」とのこと。物は言い様だ。

シンポジウムと平行して、舞台の解体をお願いした。ばらしの作業が生み出すノイズに負けないように声を大きく出さなければいけない。音響のばらしが進み、電源が切れたら、マイクが使えなくなり、地声になる。ますます、声を張り上げる。声が聴こえないから、お客さんに近づいてもらう。こうやって環境が変わることによって、表現の中身や伝わり方が変わっていく。

このシンポジウムでは、だんだん話題が、客席や建築の話になり、舞台そのものの話からは離れていった。舞台の中身自体の話が少なかった。もっと話したかったが。

今回のシンポジウムの内容を、文字にして、何らかの形で世に出していきたい。

シンポジウムは4時間で終わったが、みんなもやもやした気持ちもあるから、そのことについて語り続けてくれている。人々が語り続けている限り、シンポジウムは続いていく。いつまでも続いていくシンポジウムにしたい。

(8月11日記)

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高嶺くんが、川口さんの本番の舞台の映像を見たい、と言った。ところが、川口さんは、裏方と客席しか記録していなくって、舞台はとっていない、と言う。これまた極端だ。裏方のスタッフが活躍できるように台本を書くらしい。しかし、裏方が本気で頑張りたくなるには、やっぱり、舞台上でのことが良いことが必要だと思う。

川口さんとの話から、なぜか向井山朋子さんのことを思い出した。彼女は、現代音楽の優れたピアニストだが、彼女の関心は、時に、ピアノの演奏よりも、コンサートという空間をどう演出するか、に向かっている。「拍手して、おじぎする」、「クラシックの演奏家にありがちな衣装」、「曲と曲の間に、いちいち舞台袖に退場する」などなど、演奏会という空間の常識に疑問を投げかける彼女は、常にコンサートの常識をくつがえし、新しい試みを行う。

そうやって、覆すのも必要だが、何だか中身が一番大切な気がしてきた。結局、何を言いたいのか。その中身を極限まで突き詰めて、観客に提示するのが、舞台に立つ者の責任だと思う。

そう思った時に、向井山朋子は何をどのように演奏するのか?彼女の音楽が、どんどん極められていく中で、それを生かすために、コンサートの形式に変更を加えていけばいいと思うし、そのために、彼女とコラボレートしていきたいと思う。川口さんの舞台、本番も撮影したくなるといいな、と思った。


(8月12日記)


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シンポジウムの途中、マイクの電源が切れ、バラシの騒音の中で話している時、一生懸命に大きい声を出さないとお客さんに伝わらない。バラシの騒音が、障害になって、でも障害があるからこそ、力強く発しないと伝わらない。障害がある、という言葉を、なんとなく納得した瞬間だった。

(8月14日記)