野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

そして、感情が残った(ワークショップフォーラム最終日)

22日の深夜。日付けが23日に変わった時点で、ぼくは早朝6時まで寝ない覚悟を決めた。2日間の「全国教育系ワークショップフォーラム」で、参加者の方々と交流し、話し合うチャンスが、ほとんどなかった。この夜を逃せば、もうチャンスはないだろう。だから、一人でも話したいという人がいる限り、夜を徹して話をしよう、と心に決めた。もう、ぼくのワークショップも終わったわけだし、明日のプログラムは、カラダがボロボロでも、意識朦朧でも何とかなるだろう。

覚悟を決めて、みんなでゾロゾロと談話室へ行く。ここから、実に6時間半に渡るワークショップフォーラムが開催されることになる。お菓子やジュースやビールを片手に、「ファシリテーションって何?」、「構成的、非構成的ワークショップについて」、「ワークショップの時間、空間を限定すること」、「即興演奏を可能にするのは?」、「ふりかえりか、ドキュメントか」、などなど、自然発生的に話題が生まれ、議論が続き、眠りたい人が自由に席を離れ、合流したい人が自由に合流する。

そして、話題は「自己紹介」に向かった。このフォーラムでも、何度も
「〜〜から来ました。〜〜〜〜です。〜〜〜をしています。」
と一人ずつ自己紹介をするコーナーが、設けられた。しかし、現在の自分から変わりたい、新しい自分に出会いたい、と思っている人に、「私は〜〜〜です」と無理矢理宣言させて、今まで通りの自分を演じさせ続けることになるのではないか?

実際、ワークショップで自己紹介を強要されるのが、苦痛という人がいた。また、自己紹介することにより、差別の目で見られたり、レッテルを貼られたりする。そうではなく先入観なしに自分を見てもらえるチャンスがあってもいいのではないか?深夜のフォーラムの中で、色んな「?」が話題に上ってきた。

「円陣」と「アイスブレーク」が大嫌いな人の話も出た。「アイスブレーク」とは、氷っている気持ちをほぐすための心のウォーミングアップ、のようなものを指すのだろう。色んなコミュニケーションゲームなんかが、思いつく。これがわざとらしくて、肌に合わない、という人がいるとのこと。実は、ぼくも苦手で、みんなが不安なまま始めても、いずれリラックスしてくるのだから、ワークショップの最初は不安な状態を楽しんでもらおう、と考える。そうすると、不安な状態を脱却しようと、参加者の人達が意外な力を発揮したりすることもある。

そして、「円陣」の話になった。「円陣」とは、同心円で全員の顔が見えて、全員が等距離で、対等な場で、ワークショップではよく出てくる形だ。「対等とは何か?」という話にもなった。今回のフォーラムで言うと、「実行委員、ゲスト、参加者」という枠組から見隠れするヒエラルキー、敢えて、「講師」と呼ばずに「ゲスト」としているが、主催者側に無自覚にヒエラルキーがあって、しかし、対等のふりをしているように見える。この辺の話で盛り上がる。

そして、Nさんが、中野さんの本に出てくる「円陣」の説明に疑問を投げかけた。
「距離は同じかもしれないけど、人によって、距離感が違うから、ある人にとっては近すぎるし、別の人にとっては遠すぎるかもしれない。」
と語った、まさにその時、中野さん、実行委員の森川さん、ほか数人がやって来た。深夜4時を回っていた。
「今、ちょうど中野さんの話をしていたんですよ。」
そして、Nさんは、言いにくそうにしながら、言葉を選びながら、中野さんに語った。
「私は中野さんのことを尊敬しているし、中野さんの本でワークショップっていうものに出会って、とても感謝しているんです。」
と始めたNさんは、円陣の距離感についての疑問を語った。尊敬する中野さんに、それは違うんじゃないの?と初めて言えた瞬間だった。
「そうだね。対等って、難しいよね。」
というようなことを、中野さんは言った。

その後は、中野さんに今回のワークショップフォーラムで、ぼくが嫌だったことを、全部と言えるくらい次々に聞いてもらった。ぼくは中野さんの批判、フォーラムの批判をすると同時に、無意識に中野さんの肩を抱いていた。カラダで好意を示しながら、しかし、よいフォーラムを作りたいと、批判できるところは全部批判した。中野さんは、いっぱい言い訳した。言い訳は、もちろん分かるのだけど、分かっちゃダメだ。明日の残りの時間、今後の色んなワークショップの可能性のために、ぼくは分かっちゃダメだ。だから、ぼくは反論した。そして、初日に会った時、自然に踊りだしちゃう中野さんだからこそ、信頼して意見を言うんだ、そうでなかったら、怒って黙って軽蔑して帰るだけだ、と言った。そして、また肩を抱いていた。

森川さん達が眠くてリタイアしても、中野さんはギリギリまで粘って、このオールナイトフォーラムに参加していた。5時半、限界の中野さんがベッドを目指す時、彼は少し踊りながら帰って行った。総合監修の中野民夫が、自然に踊り出す中野民夫を取り戻した時?

結局、6人ほどが、朝6時半まで残った。1時間は寝ようか、と解散。

ぼくも1時間弱眠って、食堂に朝食。午前中は、フリーディスカッション。自由にテーマを出し、20近い分科会を作り、ディスカッションする。昨日の深夜フォーラムから生き残ったテーマもある。6時半までいた一人が、
「朝のもやもやを語り合いたい。」
と言った時、中野さんが
「私も、もやもやしてます。」
というような意味のことを言った。

ぼくは、どこに加わってディスカッションしようか、と思ったが、昨日の穴掘りの現場の写真を撮ろうと、シカちゃんと二人で行くと、そこには子どもたちが集まって、穴掘りの続きをやっていた。
「まーくん」
と呼ばれた空間の居心地の良さに、ここにいることに決めた。昨日のワークショップは6時に終わったはずだが、その穴が子どもたちのワークショップに受け継がれている。ぼくのワークショップが終わらなかったことに喜びを感じた。

ワークショップのメンバーの一人が、ぼくを訪ねて来て、穴掘りの横で話し合う。
「安心な場を作るワークショップが多い中で、野村さんの不安な状況を作るやり方が一番しっくりきたんです。」
ぼくがいつも不安な場を作るわけではないが、創造への道として、必ず「壁にぶち当る」ことが必要だ。壁にぶち当るのは、不安だが、その壁を突破できてこそ、新しい風景がひらける。その意味で、壁にぶち当ることは、必要不可欠なのだ。

子どもたちと、穴を掘ったり、木に登ったりしながら、ぽつぽつと喋っているうちに、意外に色んなことが見えてきたりする。「朝のもやもや」チームもやってきて、穴掘りの横でお喋りを始める。そこに、子どもたちの発明した「茂雄ゲーム」のルールを導入して、各自が自分の今の考えや感じたことを語る。
「冷や奴が食べたい!」
「横文字ばっかり使わなくってもいいじゃん!」
気がつくと、ぼくらの近くの芝生の上に、中野さんが寝転がっている。そして、中野さんもその場に入ってもらった。

昼食後、最後の「全体のふりかえり」に、講堂へ。すると、ホワイトボードには、「全体のふりかえり」が二重線で消してあり、「(笑)」と付加されていて、その上に「クロージングセッション」と書き換えてあった。昼食中に中野さんと西村さんで話し合って、名前を変更することになったらしい。そして、会場は、円形のセッティングになっていて、中野さんも参加者の一人として、円の中に混じっていた。そして、「(笑)」について、周りから攻められていた。

ぼくは、この「(笑)」と書いてしまうところに、中野さんという人物が現れていて、いいことだと思ったし、しかも、そうした弱味を公衆の面前で突かれていることも、凄くいいことだと思った。中野さんは、みんなの前で批判されて、すみません、と謝り、でも、「人間らしくていいじゃん」、とフォローされた。これで、みんなが意見がいいやすい場が生まれた。つまり、これが本当のファシリテーション。中野さんが意識していたかどうかは分からないけど、中野さんが「ダメ人間」として、そこに存在してくれたおかげで、全員が発言しやすくなった。これは、最高のファシリテーションだ。実行委員会への感謝の言葉も、批判の言葉も、個人的な話も、思いついた俳句も、出していい空気ができたのは、中野さんが「ダメ人間」として存在してくれたからだ。その勇気、そして、やはりこの人は、ファシリテーションの本質を、実は細胞レベルでカラダで知っている。

閉会の挨拶の最後に、中野さんが即興で一句読もうとして、「間違えても」から始まる短歌を読んだ。カッコよく決めずに、ダサく、その場で生み出そうとした姿勢が、良かった。

そして、ぼくは閉会と同時にピアノを弾き始めた。バスの時刻の連絡のアナウンスのBGMとして、ピアノを弾いた。できるだけ、自分の感情をそのまま、弾いた。あまり、難しいことなど考えずに、弾いた。対等にこだわれば、この場をぼくの音で埋めることは、特権的、支配的などとなるのかもしれないが、今のぼくには、こう関わりたい気持ちがあるし、ぼくはそうすべきだと思ったし、そうしたいと思った。対等かどうか、なんて考える前に、弾きたいと思ったし、許されると思ったし、ぼくなりの別れのメッセージを、今言うべきだろう。それは、参加者全員、実行委員のみんな、スタッフのみんな、所長の西田さん、踊り屋中野さんなんかに、愛を持って告げられたメッセージだ。

みんなと別れて、スタッフのみんなとも別れて、送迎の車に乗る。また、西村さん、森川さん、タクさん、ホウさん、と自然に抱き合ってから車に乗れた。「ありがとう」とか「おつかれさま」とか、そんな言葉で伝えられるような気持ちではなかったので、別れ際にぼくができることは、抱き合うことだけだった。その場に、中野さんや西田さんがいなかったのが残念だった。

そして、東京のアパートに着くと、そのまま眠り込んだ。20時。翌朝12時まで16時間眠り続けた。