野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

北十字とプリオシン海岸の希望

社会に参加する上で、音楽をする上で、舞台をつくる上で、不自由とか不平等に歪みを感じて、息苦しくなることがある。音楽をやり続ける中、ずっと、その歪みに抗って生きてきた。社会って何だ?民主主義って、何だ?自由と平等って何だ?

 

演劇とダンスと音楽が、対等な関係でコラボレートする。パフォーマーとマネジメントスタッフが、対等な関係でコラボレートする。言うのは簡単なんだけど、なかなか実現されることは難しく、何かが主になって、他が従になり、サポートにまわってしまうことが多い。でも、ぼくは夢を見た。一人の演出家をトップとしたヒエラルキーではない創造の仕方を。ぼくは夢を見た。一人の指揮者をトップとしたピラミッドではないオーケストラの仕方を。ぼくは夢を見た。一人の芸術家をトップとするのではなく、人々がアイディアを持ち寄り、共につくっていけることを。

 

こうした夢は、絵に描いた餅だと思われるけれども、ぼくは、それを現実にやってみせたいと思って、しょうぎ作曲をしたし、門限ズを始めた。倉品淳子は、「演劇が主軸で、ダンスや音楽が使われることって、多い。でも、そうではなく、どれもが等しく重要な、どれもが主である、そんな関係にしたい」と。バッハの音楽では、3声とか4声とか、どの声部も等しく重要だ。どれか一つだけがメロディーで、他が伴奏とかではない。だから、演劇だけがメロディーで、ダンスや音楽はバックを受け持つ伴奏じゃない。そんなパフォーマンスを作りたくって、2008年に「門限ズ」を結成した。

 

今日、丸一日、門限ズ+藤浩志+40名ほどの銀鉄演劇部+ダンス部+音楽部+美術部のメンバーが集い、物凄い勢いで、共同創作が行われていく。どうして、こんなに説得力を持つのだろう。集まっている人々は、プロでもない。何か凄く技術に秀でているわけでもない。なのに、どうして、こんなに輝くのだろう。一人ひとりの細やかな行為の相互作用で、こんなパフォーマンスになるなんて、素敵だ、と思う。

 

今日、やったことは、全部、3月ー6月の間にワークショップで生まれたアイディアを発展させたもの。演劇ワークショップで生まれたシーンに、ダンスや音楽をトッピングしたり、音楽ワークショップで生まれた曲に、演劇やダンスをトッピングしたり、ダンスワークショップで生まれたシーンに、音楽や演劇をトッピングしたりする。引力がいろんな方向に働き、無重力空間の創造の宇宙が生まれていくと、慣性の法則で創造は自然に動き始めるのだ。

 

昨日のワークショップは、最初は、野村誠が進行、次は遠田誠が進行、その次は倉品淳子が進行、最後は、吉野さつきが進行。音楽の時間→ダンスの時間→演劇の時間→フォーラムの時間と移り変わった。今日のワークショップは、最初っから、最後まで、全部が混在する時間。一人の人が進行するんじゃない。野村が何かを言い、遠田が何かを言う。ダンスに対して、銀鉄音楽部が音楽を急いで練習したり、アレンジしたりしている時に、銀鉄演劇部は、大慌てで、即座に演じ方を考えたりする。門限ズだけじゃない。その場にいる人が、機転をきかせて、どんどんアイディアを投げ合う。

 

今日は、6つのシーンを試した。その中で、演劇と音楽とダンスは、いろいろな関係性で出会った。全く違うテイストの6つのシーンが生まれた。そこにいて、演じている人々は同じ人なのに、こんなに違う世界が次々に出現する。市民革命って、こういうことなんだ、と思う。民主主義って、こういうことなんだと、思う。そういうアートが体現できたら、そういう世界も体現できるはずだ、とぼくは思う。

 

北十字とプリオシン海岸」の曲は、6月9日のワークショップで、参加者の人々が適当に言った音の並びからできた和音なのに、でも、本当に切なく美しい曲だ。それに、銀鉄ダンス部の体をはったダンスや、銀鉄演劇部の朗読が重なり合って、宮沢賢治の夢見た世界と、今日、ぼくは出会った。この夢の世界は、ぼくたちの現実とはっきり繋がっていて、夢は夢なだけでなく、現実世界でもあるのだ。

 

気がつくと、ぼくは、銀河鉄道を巡る世界から現実世界に帰ってきていた。参議院選挙速報をやっていた。ネットで見るニュースは、本当に現実なのだろうか。それとも、これが夢なのだろうか。おそらく、現実というのは、本当に多層的になっている。参議院選挙のニュースも、今日のぼくの体験したワークショップも、等しく現実だ。あまり報道されないぼくの出会った現実について知って欲しくて、皆さんとシェアしたいと思って、日記を書き続けているのだと思う。ここにも現実があるよ。まだ、何と形容していいのか言葉が見つからないような現実があるよ。そうした現実に、ぼくは(希望なんて安直な言葉を使いたくない、とか思ったとしても、それでも)希望を感じているよ。だから、今日も生きているよ。

 

みなさん、今日もありがとう。