野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

帰国/百瀬文《定点観測》/遠距離現在

深夜にバンコクを発ち、早朝に無事帰国。35℃の世界から5℃の世界へ。寒すぎる。朝8:45福岡空港着陸で、久留米シティプラザで11:00から百瀬文さんのパフォーマンスがあるけど行かないか、と里村さんから誘われて、ギリギリ間に合いそうなので、空港から直行する。

 

《定点観測》と題された公演は、15人の参加者がいて、同じ数くらいの鑑賞者がいる。参加者は1000円で鑑賞者は500円という料金設定がされている。深夜の便で寝不足だから鑑賞者として見るのだろうと思って会場に行ったら、里村さんから参加者のチケットをはい、と渡され、目を覚さないと、と思う。参加者と言っても、ワイヤレスマイクを装着し(ワイヤレスマイク15本も用意、音響スタッフの方、ご準備ご苦労さま)、アンケートに答え、それを声に出して読む、という内容なので、寝ぼけ眼でも大丈夫か。

 

舞台上で14の質問の回答を鉛筆で書いていくように求められる。一つ目の質問への回答を書いていくと、質問には答えられないが、質問から想起したことを書くことになる。二つ目の質問は2択だが、どちらにも合致しないので、不思議なところに丸をつける。一生懸命に答えようとすればするほど、質問の求めていない答えになってしまう。別に作品の邪魔をしたいわけでもない。秩序を乱したいわけでもない。ただ、答えているだけなのに。

 

その後、15人の人が順番に回答を読んでいく。同じ舞台に立ち、順番に声を出す人々とは、この時に一期一会で、どこの誰だかも分からないし、どんな人なのかも分からない。言葉の断片と声色と表情から、微かにその人を感じ、しかし、2度とこの15人でこのように集うことはないのだろう。名前や肩書きなどを羅列する自己紹介では得られない15人の声。決して一度も重ならない15声による単旋律の合唱曲。

 

終演後、作者の百瀬さんとお話する機会をいただく。質問に回答する際に逸脱していいし、わからないと答えたっていいのだ、と百瀬さんは言った。彼女は観測していたのであって、場を支配しようとしていたわけではなかったようだ。

 

百瀬さんの映像作品が3点展示もあり、一つは『国際芸術祭あいち2022』で見たことがある作品で、3つともコンセプトが明瞭なのに鑑賞者の考える余地が十分にある奥行きのある味わい深い作品だった。

 

その後、里村さんは福岡へ、ぼくは熊本へ。熊本市現代美術館で開催中の展覧会『遠距離現在』が最終日(来年3月からは、国立新美術館であるが)なので、駆け込みで見にいく。

 

遠距離現在 Universal / Remote | 企画展 | 国立新美術館 THE NATIONAL ART CENTER, TOKYO

 

徐冰(シュ・ビン)の監視カメラで撮影された映像素材を用いた81分の映画は、1日数回上映する以外は、短い予告編映像がループ再生されていた。これは全編見たいかもと思い、17:50-19:11までの上映を鑑賞。監視カメラの画質の粗い映像のコラージュから作られる映画で、声や環境音や音楽などがアフレコで加えてある、リアルに基づくフィクション。これを見るだけで、この展覧会に来た価値があった。

 

ほとんどの作品が2019年以前で、映像と平面の作品が多く、どの作品にもパネルに解説が書かれていて、古典的な展覧会の形式に収まっている。展覧会全体としては、ネット社会、監視社会、AIなどに批評的な感じがする。でも、この展覧会自体が作品を古典的な枠組みの中に入れて管理しているように感じて、ぼくにはそのことが少し居心地が悪い。パネルで説明されている説明を読み作品を見ると、歴史博物館でパネルを読み歴史資料を見ている感覚に陥る。2019年とか2016年という過去のアーカイブを見ているような感覚。「遠距離現在」というタイトルなのに、「遠距離歴史」という感覚。こういう違和感を大切にしていきたい。

 

それぞれの作品をもっと活かす展示構成ってできないんだろうか?と色々考えてみる。例えば、2016年の地主麻衣子の作品は5つのチャプターから成る40分の映像だけれども、2023年バージョンは5つのチャプターの映像が別々の空間で展示されているとか、この展覧会のためのバージョンはあり得ないのだろうか?既に47分の映像、81分の映像、15分の映像を見た後で、鑑賞開始から3時間を経過した後に、40分の地主作品全てを鑑賞できなかったから、そう思った。