野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

ガムランの作曲に向けて俳句の研究中

ガムランの新曲を作曲中。と言っても、まだ譜面を書いているわけではなく、ガムランを勉強しているのが中心。過去に何作もガムランの作品を書いているから、わかっているような気になっていたけれども、もう一度、古典と出会い直すと、また色々な発見がある。

 

今日は、一日有名なダラン(影絵芝居ワヤンクリの人形つかい)ナルト・サプトの音源を聴いて過ごしていた。

 

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ホセ・マセダのCDも聴き直している。今回、指揮することになった《Music for Gongs and Bamboo》の合唱の歌詞は俳句で、アルファベットで書かれているので、それが何かを解読していく。

 

yorade sugiru fujisawa-dera no momiji kana

よらで過る藤沢寺のもみぢ哉 蕪村

 

sugiruは、「すぐる」の間違いで、京都での初演時も「すぐる」の歌詞で演奏した。フィリピンで録音されたCDではsugiruとなっている。これは、「すぐる」でいきたい。「よらですぐる」は、「寄らないで通り過ぎる」という意味だと思うが、「よらで」は「てらで」と音が似ているので、なんとなく「寺」をイメージさせるのも面白い。藤沢寺について調べてみると、藤沢寺という名前のお寺はなくて、遊行寺のこと。「遊行」という言葉が印象に残る。フィールドワークで巡っているマセダのイメージを持つ。

 

Tsutsuji saite katayama-zato nomeshi shiroshi

つゝじ咲て片山里の飯白し 蕪村

 

これは、都会から遠く離れた山里にフィールドリサーチに出かけているマセダの姿とも重なる俳句。つつじがカラフルであればあるほど、ご飯の白さが際立ったのだろう。

 

kankinno mawoasagaono sakarikana

看経の間を朝顔の盛り哉 許六

 

これはローマ字だけでは、なかなか俳句に辿り着けなかった。「看経」(かんきん)という言葉が判って謎が解けた。読経のことを、経を看ると表現するのかぁ。これは、朝顔を愛でてる俳句のようだけど、朝顔が盛りの真夏の早朝、まだ暑くならない頃に、お経を読んでいる人への眼差しのような気がする。朝からご苦労様と言っているような。

 

Asagao ya hito no kao ni wa sotsu ga aru

朝がほや人のかほにはそつがある 一茶

 

朝顔という言葉を前の俳句と重複させていて、合唱でもいつの間にか、こちらの俳句に入っている。そして、この俳句はまさに「だじゃれ」。朝顔と言うからてっきり花のことをイメージするのに、朝の寝ぼけ顔の話に話がスライドしているところが面白い。「そつがない」という表現はよく聞くが、「そつがある」という極めて稀な用例。どんな「そつがない」人でも、起きたての顔には隙がある。そういう隙間が面白いなぁ。

 

Hyorohyoroto nao tsuyukeshi ya ominaeshi

ひょろひょろとなほ露けしや女郎花 芭蕉

 

力強い感じじゃなくって、「ひょろひょろ」と弱々しそうな女郎花に注ぐ眼差しが曲のエンディング。

 

ここまで俳句を調べて、マセダと俳諧連句を楽しんでいる気分になってきた。なんとなく、マセダへの返句を作曲したくなった。俳諧って、俳優の諧謔から来ているのだとすれば、ユーモアとか可笑しみとかで、だじゃれを重ねていくようなものだ。マセダの曲を指揮するわけだから、新作では、この俳句について解説するとか、何かマセダへの応答になっていたい。しかも、少しずらした応答になっていたい。なんとなく方向性が、また一つ定まった。