野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

答えのない問題を延々考えること

答えのない問題を延々考える。結論の出ない問いを考え続ける。ぼくたちは考える体力があるだろうか?すぐに正解が知りたくなったり、考え続けることが我慢できなくなって思考停止してしまわないだろうか?コロナがあったり、戦争があったり、延々考え続けながら生きている。でも、ぼくが子どもの頃の学校教育では、答えがある問題の正解を短時間で導くことを求められる場面ばかりだっ。そういう教育だと、考える体力は養われない。どこかに正解があり、それに短時間で辿り着きたくなってしまう。分かりやすい言葉で明解に決定をするリーダーが人気者になり多数の支持を得るのが危険なのは、ヒットラーの例を出すまでもなく自明なのに。

 

昨日やった公演《200m想》は、一人の演出家によって作られた作品ではなかった。誰か一人の世界観を体現した舞台でもなかった。どこに正解があるのか明解な答えなどない中、お互いに知恵を出し合い補いながら創作した。こういうあやふやで、歯切れの悪い、誰が責任者なのか不明確な共同責任状態で、創作プロセスも時間を要したけれど、粘り強くやって、昨日の作品が作れた。粘り強さがあれば、ああいうことが少しずつ実っていくと改めて思った。

 

自分の意見を明解に述べると、賛同「いいね」を数多くゲットできる。ぼくたちはSNSでも正解を求めてしまうかもしれない。でも、賛同や共感を求めるのでなく、疑問を投げかけることも、もっとあっていい。いや、疑問にすら到らないモヤモヤした感覚を、もっとシェアできる場があっていい。そうした不明瞭なモヤモヤと、音楽やアートは馴染みがよく、モヤモヤをモヤモヤのまま尊重できる。なのにアートに対して、「分かりにくい」とか「もっと分かりやすく」と明解な説明を求めてくる時代に、ぼくたちは生きている。でも、「分かりにくい」からダメだとは思わない。「分かりにくい」からこそ必要だとさえ思う。言葉にすらならない「分かりにくさ」を他者とシェアできる貴重な場をどうやって守っていくか。逆に、そこへの入口が「分かりにくい」ことこそ、改善すべき点だと思う。説明が難しいものの魅力を、他者とどうやって共有していくか、という問題。

 

だじゃ研の小日山さんから、動画が届く。地球温暖化に対する昆布を鳴らしての回答の歌。

 

家を片付けたり、自宅に40本ほどある鍵盤ハーモニカのリストを作る作業をしたり(22番までナンバリングして楽器の状態を書いた)、大相撲を応援したり、ピアノを弾いたりしながら、比較的のんびり過ごした一日。