野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

棲家リハーサル/200m想リハーサル

京都芸術センターの講堂にて、きたまりダンス公演《棲家》のリハーサル。舞台監督の浜村修司さんがせっせと舞台を仮組みしていて、振付/演出のきたまりさんと二人で黙々と作業をしている。手伝おうと声をかけるが、手が足りてるしピアニストに設営作業させられないと言われ、そう言えば、ピアノ弾くし、バッハを細かいニュアンスで弾き分けるという重要な任務を担っていたことを思い出す。これまで《棲家》の稽古場が、ピアノのない場所だったので、いつも野村の演奏の録音を流していたので、自分が演奏することをすっかり忘れていてスタッフの気分になっていた。そうだ。ぼく、生演奏で弾くんだった。仮設舞台が組み上がっていくと、時空がねじれていく。照明の三浦あさ子さん、衣装の大野知英さん、ドラマトゥルクの新里直之さん、制作の山﨑佳奈子さんも到着。いよいよ通し稽古だ。

 

通し稽古と言っても、ダンサーの由良部さんは何度も通し稽古をしている。そして、ぼくは何度も通し稽古を見ているし、動画でも何度も通し稽古を見ている。しかし、ふと気づく。ぼく自身が通し稽古で弾くのは今日が初めてなのだ。とにかく、今日は、ぼくにとっての初の通し稽古だ。

 

4年前、フランスのマルセイユの演劇学校で俳優たちにワークショップをした。ぼくは、声を使っての音楽をいろいろ試すワークショップをしたが、きたまりさんは、舞踏の基本として、重心を上下させずに歩くワークショップをした。あの時は、西洋人に対して日本的な重心の取り方を教えているのだ、と思った。しかし、彼女の前作の《老花夜想ノクターン)》、《棲家》での由良部さんに出会ってみると、能にしても舞踏にしても、歩くというのは究極のダンスのようにさえ思えてくる。由良部さんは、立つだけで、歩くだけで、佇むだけで、美しい。と同時に、アーティストきたまりの創作態度も歩みのようだ。一作、一作で着実に一歩ずつ進んでいく。突飛な跳躍などではない。マーラーに振り付けること、太田省吾に振り付けること、《老花夜想ノクターン)》で着地した足を軸足にして、次の一歩をすり足のように前に出していくのが《棲家》だ。

 

由良部さんの踊りは、時には大相撲の土俵入りや日本舞踊のようにも見える。土俵入りの簡略化された動きは(そして日本舞踊の動きも)、全てに意味がある。化粧まわしを少し動かすことで、四股を表したりする。由良部さんの動きの一つ一つは、太田省吾の戯曲のシーンと対応している。それを具象的に表すとパントマイムになる。それが、簡素化されたり抽象化されていくと、舞になる。だから、今日、リアルでは初共演してみて今更気づいたが(遅い!)、簡素なダンスの中にある情報量が非常に多い上に、ぼんやり眺めていると、その情報量は夢と幻のように通り過ぎていくのだ。

 

だから、ペトロフチェコ製のピアノ)の音色を手探りで確認しながら、バッハの譜面をチラチラ見ながら由良部さんの踊りを見てピアノを弾く、なんてことをしていたら、全然ダメだった。究極の歩みのような音を鳴らしたい。由良部さんの舞の微細な波動と共振するピアノを弾きたい。だったら、表面的にどんなアレンジの譜面を弾くかなんてことは度外視して、その微細なピアノを弾かなくっちゃ。

 

という自分なりの課題や姿勢を掴む初合わせだった。そう文字通り「姿勢」なのだ。ダンスに向き合う姿勢であり、音楽に向き合う姿勢であり、舞台に向き合う姿勢である。まっすぐ向き合う姿勢もある。斜に構える姿勢もある。いろいろな姿勢がある。

 

通し稽古の後は、ケンプ編曲のバッハを何度も弾いた。本番では、最終的にこれらの楽譜に忠実に弾くとかではなくなるだろう。曲を全て身体に入れてしまった後、自分の身体から自然に立ち現れるバッハの亡霊のような、バッハの影のような、そんな音楽を演奏するために、今はまずバッハそのものを身体に沁み込ませたい。

 

ki6dance.jimdofree.com

 

夜は、ホテルから、門限ズ(遠田誠+倉品淳子+野村誠吉野さつき)+ボーイズ(里村歩+廣田渓+森裕生)による公演《200m想》のリモート稽古。ホテルなのでピアノを弾いている仕草だけで参加。

 

q-geki.jp