野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

世界のしょうない音楽祭/ピアソラナイトの曲目解説

2月26日の「世界のしょうない音楽祭」(@豊中市立ローズ文化ホール)に向けての打ち合わせ。日本センチュリー交響楽団大阪音大豊中市で。昨年は、無観客で収録のみだったが、今年は、ステージ上でマスクをしての演奏になるが、有観客になる予定。西洋弦楽器が約10名、箏が約10名で、それ以外の打楽器、尺八、ガムランシタール、ギター、鍵盤などが約10名で、合計30名を超えるアンサンブルになりそう。ステージ上の配置を考えるだけでも一苦労。

 

2月22日の「ピアソラナイト〜featuring野村誠」のプログラムノートを作文するために、今日は一日中、野村誠牛島安希子《オルガンスープⅡ》(2006)の音源を聴いていた。牛島さん、いい作曲家だ。

 

オルガンスープⅡ (2005/2006)

 

 子どもはすごいです。音楽創作のワークショップをすると、子どもの自由な発想に仰天することがしばしばあります。ぼくたちプロの音楽家が長年身につけた技術や常識を、簡単に覆してくれます。だから、逆に作曲家として、子どもの奔放なアイディアをモチーフに作曲するのは、本当にスリリングです。この曲は、その典型例で、2005年の春に、横浜みなとみらいホールで開催した3日間のワークショップで小学生が考えたアイディアをふんだんに盛り込んでいます。

いくつかのアイディアを混ぜて煮込んだスープのように作曲したので、子どもたちのアイディアがそのまま出てくるだけでなく、煮込まれて形を変えたり、原型を留めずに溶け込んだりもしています。原曲の《オルガンスープ》は、ぼくが2005年に作曲したパイプオルガンのための作品で、みなとみらいホールのオルガンで世界初演後、サントリーホール東京芸術劇場東京藝術大学など、様々なオルガンで再演されてきました。

スープは一晩寝かせると味が沁み込み美味しくなります。半年ほど寝かせた《オルガンスープ》を牛島安希子さんに弦楽四重奏に編曲を依頼したところ、子どもたちの様々なフレーズを活かしながら再構成し、また違う味付けのスープに作り変えたのです。これは編曲の領域を超えた新しいスープとして《オルガンスープⅡ》と名付けました。

 曲の後半に登場する印象的なメロディー「みそラーメン食べ放題」は、チャルメラのフレーズ(ドレミーレド、ドレミレドレー)を、みそラーメン=ミソラ+アーメンと考えて、ミソラーソミ、ミソラソミソーとした体験が元になっています。子どもたちの自由な発想は、時に美しく、時に楽しく、時に不思議なほど複雑だったりします。本日は、子どもたち→野村誠牛島安希子を経て、バトンが日本センチュリー交響楽団の素晴らしい4人託されました。17年前の子どもたちから受け取ったバトンには、音楽をする根源的な悦びが詰まっています。どうぞお楽しみください。

 

この文章を、書き終えた後、《アコーディオン協奏曲》の譜面を眺めながら、曲目解説を書いた。この曲へのぼくの思いをどうやって書けるのだろう、と思ったら、こんな文章になった。

 

アコーディオン協奏曲(2008)

 

 中学生の頃、国語の授業で方丈記の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」という文章に出会いました。今、目の前を流れている水は、次の瞬間には流れてしまいます。人生も同様です。今という時間は、次の瞬間には過去になってしまいますし、音楽も同様で、今、聴いている音楽は、次の瞬間には、もうどこにも残っていません(もちろん、録音することは可能なのですが)。

 ぼくは作曲する時に、演奏する人のことも想像しますが、まだ会ったことのない聴衆のことも想像します。どんなお客さんがどんな気分で聴いてくれるだろうかと想像することで、自分の音楽をこんな風に伝えたいと、作品の構想が変わってきたりします。この曲を作曲した時は、ドイツのお客さんを想像しました。というのも、ドイツに留学中の大田智美さんからの委嘱で、初演もドイツだったからです。論理的な構築を好むと言われるドイツの観客に、どんな音楽を届けたいだろうと考えた時に、自分自身が持つ日本的な感覚を味わってもらいたいと思いました。それは、方丈記の示すような無常感。少しずつ微妙に季節が変わる日本の風土でぼくが味わっている時間の音楽です。

 ですから、この曲は時々刻々と移ろっていきます。いつの間にか景色が変わっていきます。どう感じ、どう聞くかは、観客の皆さん一人ひとりの感性で自由に味わっていただければいいので、これ以上の説明は蛇足かもしれません。なので、以下の説明は、あくまで鑑賞の妨げにならないガイドとして、言葉にならない感覚を少しだけ言葉にしてみます。

曲の始まりはリズミカルに駆け抜けるように進む「トッカータ」です。でも、進んでいくうちにバラバラになっていき、いつの間にか溶け合って響き合っているのです。そこで遠くから子守唄が聞こえてくる「コラール」(うた)になります。気がつくと、4拍子の軽快な舞曲「パルティータ」が始まっていて、アコーディオンと弦楽が対話を始めます。対話はどんどん白熱し、限界まで加速していくのです。気づくと風が吹いてきます。風向きによって違う響きが聞こえてきます。再び聞こえてきた子守唄は「カノン」(輪唱)のように、色々な方向から聞こえるのですが、よくは聞こえません。夢なのでしょうか、幻なのでしょうか、ふと気がつくと、夢から醒める寝息なのか、臨終の最後の呼吸なのか、新しい季節の訪れなのか、風が吹いています。

なんていうのは作曲者の戯言で、本日の素晴らしい演奏家たちが心を込めて発する音にあらゆる思考が吹き飛ばされて、ただただ無心に音楽を味わいたい。ぼくはそう思って、全身が耳になるのです。

 

本当に楽しみだ。