野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

退廃芸術、ドラマトゥルク

文化庁が、あいちトリエンナーレ2019に交付金の支払いを取りやめた、というニュースを聞き、驚く。払うと約束しておきながら、理由にならないような理由を言って払わないって、悪質な詐欺のような態度を、日本の公的な機関が、しかも文化庁がやってしまうのか。非常に残念だ。あいちトリエンナーレ2019は、テロの脅迫を受けた被害者だ。国、文化庁は本来、こうしたテロの脅迫で活動が妨げられた展覧会を、様々な形でサポートするべき立場にあって欲しいと思う。しかし、現実には、今ぼくたちが暮らしている国は、そうではない。

 

そもそも、名古屋市長の「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展」の作品に対する「日本国民の心を踏みにじるものだ。税金を使ってやるべきものではない」という発言、ナチスドイツの「退廃芸術」政策の主張と似ていると感じるのは、ぼくだけだろうか?「ナチスドイツの社会や民族感情を害するもの」として「退廃芸術」を禁止する態度と、そっくりではないか?ソ連スターリンが、様々な芸術家を形式主義の烙印を押して規制したこと。今の日本の政治家がアートに対して求めていることは、スターリンの「社会主義リアリズム芸術」と何が違い、何が同じなのだろう?ぼくには、そっくりに感じる。ロシア革命100年の2017年のこのブログに、

 

社会主義リアリズムの民衆に分かりやすい音楽という発想に対する議論と、日本の各地で行われるアートプロジェクトに関する議論が、微妙に似ている気もして面白い。ショスタコーヴィッチのオペラを、レーニンが否定していく姿が、前大阪市長が、文楽などを否定していく姿に重なって見えるので、前世紀の話は本当に他人事ではない。

 

と書いた。こうした20世紀の前衛芸術と抑圧の歴史から、我々は十分に反省し学んできたつもりと思うが、特に20世紀の音楽史や美術史を学び、反省していき、自分たちの足下を見つめ直す必要があると思う。文化庁助成金を交付しないという詐欺のようなことが罷り通るような世の中になると、本気で亡命や移住を準備する人々が多数出てくるだろう。現に橋下徹の政治活動の余波を受けて、大阪から脱出し移住したアート関係者をぼくは数多く知っている。もちろん、今でも大阪の中で戦っている人々も多数いる。それが大阪だけの話ではなく国家規模になれば、我々は日本から脱出し移住することを、真剣に考えなければいけない時代になる。そんな国にならないように、なんとか歯止めをかけたい。そのために何ができるのか、そういうことを議論し、何かを始めたり継続していく。そんな時間をたくさん持ちたいと思う。

 

さてさて、本日も、ジャグリング公演「妖怪ケマメ」の稽古場でみっちり稽古。今回の作品は、渡邉尚とギヨーム・マルティネの共同作品だが、二人は出演もしているので、客観的に外から見られるドラマトゥルクのジョアン・スワルトヴァゲールが演出家のような役割を担っているように見える。もちろん最終的な決定は、渡邉尚とギヨームがするのだが。こうした作り方は、フランスのジャグリングでは普通らしく、公演の直前にはドラマトゥルクが仕切っていくのだそうだ。演劇において、ドラマトゥルクっていう役割があるのは理解しやすいが、ジャグリングにおいてもドラマトゥルクっていうポジションがあり得るのだ、と面白く思う。そうなってくると、音楽でも、ドラマトゥルクって役割があり得るのかも。その場合、どんな仕事になるんだろう。オーケストラを指揮車が指揮して、客席からリハーサルを聞いてコメントをするドラマトゥルク。