野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

ディディエと相撲と狂言

ディディエ・ガラス「ことばのはじまり」@アトリエ劇研の初日でした。当日パンフレットに演出アシスタントの中筋朋さんが文章を書いてまして、その文章がとても良かった。

『ことばのはじまり』は、子どもの遊びのようないくつかのゲームから出てきました。演出家のディディエがルールを決め、それをもとにみんなで遊ぶ。みんながめいっぱい遊んだ結果、遊びのルールがどんどん変わっていくーその過程で演出家のディディエがしていたのは、なによりも「よろこぶ」ことでした。そして、遊びはどんどんふくらんでいきました。その過程で、ディディエがこの作品のインスピレーションの源としていた哲学の文章も、どんどんシンプルなものになっていきました。けれども、そのエッセンスが消えさったわけではありません。それはむしろ、演者のみなさん、音楽、みんなでつくる空間へと吸収されていきました。
 『ことばのはじまり』は、子どもの遊びですが、子どもの遊びではありません。稽古のあいだ、その「遊び」を見ながら、いろいろなことがあたまに浮かんできました。そして、「遊び」からいろいろなことを教えられながら思い出していたのが、「芸術家は500歳生きた子どもである」ということばでした。どんどん時を重ねて子どもになることが、わたしたちの今の社会では大切になっているように思います。けれども、それとは反対に、時をとめて子どものままになってしまっている人がふえているように感じます。子どもの遊びは、社会の縮図でもあります。この作品は、子どもならぬ子どもとしていかに社会をつくっていくかという問いに対するはじめの身ぶりになりうるでしょう。子どもになれるのは、もしかしたら大人の証なのかもしれません。
(Making of『ことばのはじまり』(「ことばのはじまり」を楽しむための手引き より)


客席最前列に子どもが座って観劇してくれまして、反応も新鮮でした。あっと言う間の本番でした。モノクローム・サーカス主宰の坂本公成くんも観に来てくれて、「作る過程で随分遊んだんだろうね」と言っていました。作る過程だけでなく、本番の最中でも練習をなぞるだけでなく、どれだけ遊べるかは、非常に重要になってきます。舞台という社会を成立させながらも、枠組の中で自由に遊んだり、枠組を自由に超えて行き来して遊んだりし、自分の中の子どもを大切にする。朋さんの言うところの本当の大人を模索する日々です。

ディディエと以前コラボレーションをした狂言師の方が観劇されておられまして、お話したところ、狂言と相撲の関わりは深いらしく、蚊が相撲取りに化けて大名と相撲をとる「蚊相撲」や、中国に行って次々に相撲をとる「唐相撲」など、様々な相撲関連の狂言があるらしいのです。狂言と相撲に関して、もっと勉強したいです。