野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

教えることと、学ぶこと

18年来の親友のヒュー・ナンキヴェルと長崎に来ております。半年前に、初めて会った長崎大学の西田治准教授は、野村誠の著作を全部読んでおられ、縁あって、今回も、長崎で音楽教育のあり方について問う貴重な実践の場を提供して下さっています。今朝は、自由の森保育園で、子どもたちとのセッション。

今日のヒューのセッションを見て、彼も随分変わったのだなぁ、と思いました。彼を初めて日本に招いたのが2004年1月で、この年に「ホエールトーン・オペラ」が始動するわけです。その時に、一つ、日本の幼稚園でヒューにワークショップをやってもらいました。彼は子どもたちと歌を歌ったり、ゲームをしたりしながら、徐々に音楽へと導いていく、そんなワークショップで、とても素晴らしかったのです。その頃、ぼくや片岡祐介さんの半ばカオスに近い非常に危なっかしい綱渡りのようなワークショップを、平然とやっていたのですが、それをヒューは、「君たちのアプローチは、自由がいっぱいある」と高く評価してくれていました。

その後も、イギリスや日本で何度も幼児のワークショップを彼とやりましたが、彼は、嫌味のないやり方で、楽しく場を形成しながら、場をリードしていました。その流れるような展開や、安定した進行は、単なる音楽のプロに留まらないワークショップのプロだなぁーと感じるものでした。

ところが、今日の彼のアプローチは、そうした以前のヒューとは、大きく違っていました。それは、まるで昔の野村誠片岡祐介のアプローチに近いようなアプローチでした。一見するとワークショップをリードせずに子どもたちを放置していると誤解されるかもしれないようなカオスの場を生み出し、楽器をする子どももいる、走り回る子どももいる、しゃがんで絵を描いている子どももいる、多層的な場を生み出していたのです。

これは、彼がHomeland Nursery Schoolの保育士のSarahとコラボレートを続けていることが、本当に大きいようです。Sarahがよく言うそうです。「教師が教えているのか(teaching)?それとも、子どもが学んでいるのか(learning)?」。みんなで一斉に先生の言う通りに動く活動は、秩序だって見えますが、先生が教えていて、子どもがやらされているだけで、全然学びになっていないことも多い。逆に、砂場遊びのように、各自がバラバラに自由に遊んでいる混沌とした場の多くで、子どもたちが主体的に学んでいることが多いのです。

そして、ヒューは音楽家でありながら、音楽のワークショップをしようとせずに、子どもたちが絵を描いたり、踊ったりすることも含めて、OKとしていました。そもそも、音楽と美術とダンスを別ジャンルとして分けている大人の世界と違って、4歳の子どもの世界では、音楽と美術とダンスの間に、明確な境界などなく、創造すること、楽しむこと、遊ぶこと、でしかない、とヒューは言います。

そんなワークショップの場に立ち合ってくれた長崎大学教育学部の西田ゼミの皆さんと、午後には、時間が流れるのも忘れるくらい遊びを楽しみ、その後、真面目に話し合ったりしました。

1 昨日つくった歌「Friendship」を歌い
2 ヒューのボディパーカッション
3 いすとりゲーム(同時進行で、作詞、大人数でピアノの即興伴奏)
4 ホエールトーン・スケールで歌づくり
休憩
5 今朝のワークショップに関するディスカッション
6 Shared Inventionsの図形楽譜を楽器で演奏

ただし、ぼくは、教えることは決して悪いことではないと思います。熱意を持って教えることは、素晴らしいことです。ただし、教えることが、時に、自ら発見していく機会、学んでいく機会を奪うことも、しばしばあります。だから、教師や年長者は、年少者の言葉、態度、表現に耳を傾ける必要があると思うのです。先生の言う通りにしか行動できない人材を育ててしまうと、問題は先生が解決してくれる、お上が解決してくれる、カリスマ政治家が解決してくれる、となって、自分の力で世の中を変えていくことを放棄してしまいます。一方、そうなると、カリスマ政治家も、住民の声などに耳を傾けずに、自分を信じてついて来い、となります。カリスマ政治家や、カリスマ指揮者や、カリスマ演出家に任せていくのではなく、市民の声に耳を傾け、市民に問いかけていく政治家、奏者一人ひとりの要望を察することができる指揮者、俳優の表現欲求を最大限サポートする演出家、そういう人物こそ、今の世の中に必要だ、と思うのです。政治家や指揮者や演出家は、支配者ではなく、調整者であるべきだ、と思うのです。コントロールするのではなく、コントロールしないのに、うまくいく。その秘訣を解明していくことこそ、21世紀の大きな課題です。

それを強く感じた今日一日でした。