野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

昨日の仙台でのシンポジウムについて

昨日、ワークショップについて書いたのですが、すごく楽しかったのです。インクルーシブ・ダンスという年齢、国籍、障害、性別、宗教など、一切問わず、誰もが参加できるダンスを提唱している団体「みやぎダンス」の主催のワークショップだったのですが、実際には、そんなに年齢、国籍、障害、性別、宗教、・・・・などが、多様ではなくって、なんとなく、知的障害の人とその家族や関係者、というような集まりでした。でも、その身内が集まっている感じの場が、ぼくには楽しかったし、居心地もよかった。

様々な人がいると、そこには、衝突や、ずれや、ストレスが、いっぱい出てきます。そうした違いが生み出すズレを、創作のパワーに結びつける、ってこともあると思います。そういう場は、居心地が悪いし、その居心地の悪さや考えの対立などが、場合によっては単なる崩壊につながり、うまくいくと、奇跡的なコラボレーションになったりする。そして、そういうことをやるのは、覚悟がいる。

でも、無理に、そんな大変な状況にしなくても、似た者同士で集まって、居心地のいい場を作って、そこで楽しく過ごすというのもありだと思う。例えば、内橋和久さんが11年続けてきたFBIという素晴らしい音楽祭がありましたが、このフェスティバルに出ているミュージシャンは、もちろん、一人ひとり個性も大きく違うけれど、でも、似た方向性に向いているミュージシャン達とも言えます。そして、その場は楽しいし、居心地もいいし、一つのミュージックシーンを作っている。そこには、無理に対立も起こらない。

注:「似た方向性」という言葉が誤解を生むかもしれませんが、「同じ方向」ではなく、「似た」と書くことで、違いがありつつ、あるムーブメントを起こしていることを表現しようとしたのですが、やや誤解を生みました。一人ひとり個性も大きく違うが、フェスティバル全体としては、ある明確な方向性を示していること、それが、一つのミュージックシーンを形成していること、に敬意を表していることを、補足します。また、「無理に対立も起こらない」と書いたのは、「不必要な対立」、「ストレス」のことを指します。もちろん、FBIに参加した音楽家同士の即興セッションの中で、様々な押し引き、駆け引き、そこでの個性や音楽観のぶつかり合いがライブで起こっていることは、大前提の上で、しかし、無理に対立を引き起こすような強引かつ無謀で非現実的なミスマッチを仕掛けたりはしない、という意味です。
で、みやぎダンスは、どっちをやりたいのか?それが、分からないのです。「インクルーシブ・ダンス」という言葉自体に、ぼくは、あまりいい印象を持ちませんが、敢えて、そう言うからには、全然違った人が集まって、衝突、対立、激論、価値観のズレ、・・・、そういうことからダンスを作りたいという意味か、と思えます。が、作っているものや状況を見る限り、そうではないように見える。

だったら、インクルーシブという看板をはずして、ダンスの好きな知的障害児がメインでいて、彼らと一緒にダンスが踊りたい人、から構成される団体で、居心地のいい場を目指していく、とかの方が、自然でいいんじゃないかな、と思ったりするのですが・・・。で、そうなると、振付家の砂連尾理さんを呼んだりしなくてもいいし、ぼくみたいに、正直に発言しちゃうし、過激な発言もしてしまう人を呼ばなくてもいい。

でも、みやぎダンスの定行さんも、エイブル・アート・ジャパンの太田さんも、不思議な人たちなのです。なぜか、野村誠をよんだり、砂連尾さんをよんだりするのです。ということは、ぶつかったり、対立したり、できあがったものを壊してみたりしながら、物を創ってみたい、という欲求、衝動が、出てきているのだと思います。なんだか分からないけど、そこに踏み込みたい、という衝動があるから、こうなってくるのです。

その衝動があるならば、やるならやるで、決断することだと思うのです。居心地のいい場は守れないかもしれない。厳しいこともあるかもしれない。結構、向き合うことも多くなるかもしれない。コラボレーションで作品を創作するって、他者とのズレや違いを克服しなければいけないし、結構しんどい、疲れる。

でも、それによって、互いに得るものは大きい。そこに、期待すると、踏み込むことになる。踏み込んだら、もう後戻りできない。本気で愛するしかない。本音を言うしかない。きれいごとでは済まなくなる。

代表の定行さんがココまで踏み込むと決意し、砂連尾さんも分かったと決意したと仮定して、実際の出演するダンサー達とも、そういうコンセンサスをしっかりとった上で、プロジェクトを始めないといけないんでしょうね。でも、ぼくは、今せっかく実現できている居心地のいい場を、ゆるやかに継続し続けていくことこそが、良いような気がしました。

ただ、入場料をとって、チケットを売って、公演をしていく場合、次のことが、ぼくが思いつく提案です。

●群舞は、意識的になくす。群舞をしないで、一人ひとりをダンサーとして、きちんと観客に提示する。
●50分で10人出演する作品を作るよりは、1〜4人程度の10分の作品を5本作る方が、客としても見やすいし、稽古もやりやすい。その後の展開も、そうした5作品のうちのどれか一つだけが、すごく質が高ければ、それだけが発展していったりしてもいい。
●チラシに、「インクルーシブ・ダンス」と掲げるのをやめる。「様々な人」という言い方もやめる。その代わり、出演者の一人ひとりのプロフィールをきちんと書く。出演者には、様々な人がいて、面白そうな相互作用で生まれた作品だ、と観客に伝わるようにする。
●団体の理念を掲げるのをやめる代わりに、出演者、関係者が、今回の公演の見所、セールスポイントをきちんと外に向けて発信する。ダンスがすごく好きで、ダンスがやりたい、という気持ちを、公言するのもよし、誰も見たことのない本当にゾクゾク・ドキドキするようなダンス作品を作りたい、という野望を語るもよし、または、砂連尾さんが、今回の演出で、自分はどういう新しい地平に踏み込んだかを語るもありだと思います。
●「みやぎダンス」という組織の中から、カンパニークラスとして、キランというグループが生まれた、という形になっていたようです。「みやぎダンス」という組織と、キランの関係が不明確です。シンポジウムのタイトルも、「みやぎダンスはアート作品をつくっているか?」でした。でも、本来は、「キランはアート作品を創っているか?」だと思います。「みやぎダンス」のメンバーの中から、小さな団体がいろいろ生まれて、それが独立して活動していく状況が作れると、いいのだと思います。

シンポジウムに参加した皆さん、関係者の皆さん、おつかれさま。過渡期ですね。5年後、それぞれが、どの位置にいるんでしょうね。ぼくはとにかく、砂連尾さんが思う存分の作品を作っていたり、シンポジウムでみんなが好き放題意見が言い合えたり、もっともっとお客さんが集まっていたり、シーンが盛り上がっていたり、色んな意味で、期待しちゃいます。ま、とにかく、おもろいことになっていったらいいなぁ。