野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

音楽療法、酔っ払いの会

今日は、音楽療法を実践する若い人で、片岡祐介さんと酔っ払って語り合いたい人により結成された「酔っ払いの会」が、野村宅で行われた。

まずは、卒論で「打楽器の音楽療法」を研究しようという人が、片岡さんに取材。
ぼくが提案したことは、片岡さんなど実践者に、打楽器一つひとつについて、インタビューをすれば、その楽器に関するエピソードが収集できるのではないか。一つひとつの楽器にフォーカスを当てることで、楽器を通して、その人のセラピー態度や、人と人との関わりが見えてくるのではないか、ということ。

我が家に滞在していたピアニストの岡野勇仁が帰るというので、特別ライブを急遽行い「世界の生成について」(岡野勇仁作曲)を演奏してもらう。片岡さんとぼくはパーカッションで合奏。その後、岡野くんの1月の東京でのライブの録音を聴く。演奏、選曲ともに、好評。

酔っ払いの会の参加者の多くは、石村真紀とのデュオコンサートに来ていたので、話題は石村真紀のことに。石村真紀は、技術や常套句の鎧をまとわずに、素のまま、裸の状態でステージで演奏する。そのことに、ミュージシャンである岡野くんなどは、感動したとコメントする。音楽の本質、根源に直接向かう態度は、プロの音楽家がほとんどやらない部分だからだ。

このことは裏を返すと、プロの音楽家のようなボキャブラリーや安定感、観客へのサービスや、エンターテインメントを期待した観客には、求めたものが何もない演奏とも言える。

では、何を見せたくてコンサートをするのか、次の展開は何か?

集まった人たちは、論文、研究目的、療法効果、などに違和感を覚えて、障害児(者)と音楽をすることには興味があるが、音楽療法という言葉じゃなくてもいいのでは、と感じているようだった。では、彼女たちは、何を求めているのだろう。そこは、突き詰めて考えた方がいい問題だと思う。というのは、音楽療法を学ぶ多くの若い人は、必ず同じようにそこにたどり着き、そこで思考停止をしてしまう。そこで、思考停止をして身動きがとれなくなるくらいなら、単純に「音楽療法じゃない」と言ってしまうのも一方法だが、敢えて、逃げずに、その問題に立ち向かう気持ちを持ってもいいと思う。

もやもやしたものを、きちんと言語化できるまで考える作業。
それをきちんとすれば、一歩先に進めると思う。

シリアに行って音楽療法をするか、ちんどん屋に入団するかを迷っている人もいた。
セッションのビデオを見て、意見交換。
ビデオの中には、非常に面白い場面がいくつかあった。音楽療法のセッションでは、数限りないほど異なった場面が出てくる。その中の特徴的な良いシーン、印象的な場面(うまく関係が成立していない場面も含めて)を、セラピスト同士で、もっと共有して情報交換をすれば、全体的にレベルアップにつながるはず。

酔っ払いの会では、各自がセッションの面白いシーンを持ち寄り、それを鑑賞する上映会を時々行っていくべきだ、と思った。ということで、次回は、そうしましょう。

明け方まで、酔っ払いながら語り続ける。
明け方には、ヘンリー・カウエルの音楽をかけながら、ニヤニヤしているうちに、眠たくなって、みんな寝た。参加者は、10人ほど。