野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

そのために、ここで、話をする。とりわけ、働くこと、自由、表現について。お金か、時間か、損得か。なにが幸福か。

京都の梅小路公園の緑の館のイベントスペースという会場で、詩人の上田假奈代さんが好きなことをやってもいい、というKyoto Interchange企画のイベント

 

そのために、ここで、話をする。とりわけ、働くこと、自由、表現について。お金か、時間か、損得か。なにが幸福か。

 

が開催され、上田假奈代さん、ダンサーの砂連尾理さん、哲学研究者の永井玲衣さんと共演してきた。

 

14時開演で17時45分頃に終演で、休憩込みで3時間45分の濃厚な時間だった。

 

詩人として、パフォーマーとしての上田假奈代は本当にポテンシャルがあり、彼女の能力と声を思う存分引き出すべく、野村、砂連尾さん、永井さんは、それぞれの方法で、ファシリテーションをしていた。

 

野村のファシリテーションは、暴れたり、場を荒らしたりして、混沌を生み出し、予定調和にならず、一寸先は闇なスリリングな遊び場をつくること。砂連尾さんのファシリテートは、混沌とした中に関係性をつくったり、別のレイヤーを共存させていくこと。永井さんのファシリテートは、観客との対話を通して、その場にいる全員の違った意識を紡いでいくこと。このメンバーは、上田假奈代がキャスティングしたのだが、彼女が安心して自由でいられるために必要な人選になっていた。

 

結局、ぼくは開演直後から鍵盤ハーモニカを強く吹いて、上田假奈代の導入の個人史に音をぶつけていて、5分後には大暴れをして、上田假奈代が読んでいる原稿を奪い、「どうして原稿を読んでいるの?丸腰じゃないの?」と、上田假奈代をグルグル引っ張り回す。砂連尾さんが登場して、「観客のみなさんもゆっくり動きましょう」と言って、観客もみんな立ち上がって動きを始めたので、開演5分後には、全員がパフォーマーになる混沌の場ができていた。上田假奈代からは、本当に、色々な声や言葉が出てきて、ぼくもピアノなどいっぱい弾いた。第1部は60分だったけど、2時間半くらいあったんじゃないか、というくらい、色んなことが起こった。

 

第2部は、永井さんの哲学対話になった。観客の人が一人ずつ発言し、過去の自分が発せられなかったコトバを発声し、それは過去の自分の気持ちを供養していくような体験だった。永井さんは観客の半分くらいが発言したところで、そろそろ終わろうとしたが、上田假奈代は全員の声を聞きたい、と言うので、スタッフまで含めて全員が自分の言葉を発するまで続けた。だから、後半は少し違った試みにしようと、ピアノ伴奏つきでやった。第2部は70分くらいやった。第3部は、上田假奈代が突然死体のフリします、と言って寝転がる。砂連尾さんもその横に転がる。二人が微かに触れ合いながら、進んでいく。終演時刻の5時が近づいた。パフォーマンスも終わろうとクールダウンするようだった。ぼくは、なんだか言えていないことがあるような感じがして、気がつくと、ものすごく激しくピアノを弾き始めていて、そのまま叫び声をあげていた。おそらくコトバにならない声をあげていた。好きなことをするって、なんだ?アーティストの好きなこと、ってなんだ?アーティストは、切り離された個別の存在なのか?アーティストがやりたいことは、主催者との対話から出てきたり、観客との微かなコミュニケーションの中でも出てくる。だから、上田假奈代には、野村誠も砂連尾理も永井玲衣も遠藤水城も山本麻友美も投影されているし、観客も投影されている。やりたいことも、個人なのかコレクティブなのか、それはどちらでもある。砂連尾さんは、水の中に入ってた。気がつくと、終演時刻を15分過ぎていたが、そこから観客の方々も交えた話し合いになった。

 

タイムカードのこと、仕事のこと、好きなことをすること、色々な年代の色々な人が話した。明日、仕事を辞めるという方もいた。今日、この場があって本当に救われた、というようなことを言う人もいた。

 

第3部は、1時間半近くやってた。終演後も残っていっぱいしゃべっていく人たちがいた。

 

ご飯を食べながらの関係者打ち上げでも、色々、話ができ、通称「野村提言」と呼ばれる「ココルームでの上田假奈代の業務をもっと軽減すべし」に多く賛同も得られた。それをどうやって実現していくかは、大きな課題なのだが。

 

まだ足りなくって、京都駅で假奈代さん、砂連尾さんに里村さんも合流して、名残惜しく1時間ほどお茶をした。假奈代さんが大阪に帰って行って後、砂連尾さんと歩きながら、それぞれのホテルへの分かれ道になったところで、深夜の立ち話。興奮しながら、今日のことを一生懸命言葉にしていこうとする時間。

 

生きているうちは、また遊ぼう。いや、死後の世界に行っても、ぼくらの即興セッションはつづくだろう。