新曲「メシアン・ゲーム」を作曲中。これは、2台ピアノと声とボディパーカッションになる予定。
里村さんが行く予定にしていた「シアターコモンズ」のイベントが、コロナウイルスの影響で、オンライン配信となっていて、自宅にてシンポジウムがライブ上映されている。そこで話されている内容を聞くと、ぼくが「だじゃれ音楽」を始めた頃に考えたことを、たくさん思い出した。
2010年2月5日の日記「聴く芸術家」がこちら
ヒューのことも思い出した。作曲家のヒュー・ナンキヴェルがEU離脱3部作をつくった。その第1作は、三角形がテーマだった。右翼と左翼、リベラルと保守。東洋と西洋。与党と野党。伝統と前衛。いろいろな二項対立で語ると分かりやすいことも多いのだけれども、そんな2択にハマらないこともたくさんある。何度もモップで三角形を描きながら、トライアングルで合奏の伴奏をしながら、投票したり、EU時代の歴代首相の写真をシュレッダーにかけながら、ヒューがコミュニティ合唱団「コーラル・エンジニア」とつくった合唱パフォーマンス「Invoking 50 Articles」。もちろん、歌っている人の中に離脱に賛成を投じた人も、反対を投じた人もいる。
近年、相撲と音楽のプロジェクトをやっている。相撲は、「国技」とも言われるので、右翼だろうか。保守だろうか。伝統だろうか。しかし、相撲を見ていくと、どんどん伝統を変更し、更新し、変化させていくので、革新かもしれない。相撲の歴史を調べれば調べるほど、世の中、そんなに単純に、伝統とか、国技とか言えない複雑な様々な事情の上に現在の状況があることが見えてくる。それは、相撲だけでなく、他のことでも、そうだったりする。
黛敏郎のことも思い出した。前衛の作曲家として活動した黛は、晩年は、現在の「日本会議」である「日本を守る国民会議」などで積極的に政治活動をする。前衛から右翼まで、それは、大きな転換のように思えるが、本当に大転換なのだろうか?黛は方向転換したのか、首尾一貫していたのかもしれない。でも、それらは、現代音楽の世界では、タブーなのか、あまり語られないかもしれない。
藤井光さんの作品が面白そうで興味を抱いた。『ネット右派の歴史社会学』著者の伊藤昌亮さんの話も面白かった。みなさん、とても一生懸命考えて話しておられて、切実で、共感する内容も多かった。と同時に、いつの間にか、「ネット右派」に関する話題になってしまっているディスカッションを、ぼくは少しだけ残念に思った。「わかりあえない者たち」をつなぐ芸術 と題されたフォーラムだった。まず、自分自身こそが自分にとって「わかりえない者」であったりするし、藤井光さんが、「わかりあえない者たち」の例として、ご自身の作品に出演した日本で働くベトナム人の人々のことをあげていたのに、その話は、最後までスルーされ続けていた(ように思う)。みなさん、自分が当事者として話したいことがたくさんあって、無意識のうちに忘れてしまっている。(ベトナム人のことも大切だけども今日は話さなくていいか、と敢えてはずしたわけでもなさそうで、本当に忘れていて、本当になかったかのように振舞っている。)それを見ていて、少し怖くなった。あんなに一生懸命に3時間半もフォーラムやっている人々が、こんな風になかったことにするんだなぁ。悪気があるわけでもない。そこが怖かった。いろいろ考えさせられた。