明治安田生命での「コラボ・シアター・フェスティバル」を見に行きました。
今年が第3回で、第1回、第2回は、ぼくがフェスティバルのディレクションをしました。今年は、ぼくの手を離れたので、観客の立場で、見に行きました。
ちょうど一年前、宮崎で見た「隣の町」の東京での再演です。(宮崎で見た時の感想文はこちら→)
http://d.hatena.ne.jp/makotonomura/20070224
感想は、端的に言えば、とても、じわ〜んとして、ぼわ〜んとして、ふわ〜んとなった感じです。演劇というのは、言葉を使うので、言葉の持つ論理性が邪魔をして、じわ〜ん、とか、ぼわ〜んと、なりにくい芝居が多いのですが、この芝居は、じわ〜んと、ふわ〜んと感じて、ほにゃ〜ん、となりました。いい時間だった。
宮崎では、お客さんがどんどん遅刻してくるし、そもそも会場に入った時点で、ゆるやかな時間が流れていたのですが、東京では、お客さんは全員定刻前に客席にいて、東京らしい時間が流れていました。同じ作品が、違う土地にくると、こんなに違った感じなのか、という点も面白かった。もちろん、一年かけて、作品自体も練り上げられています。この作品を、今、宮崎で見たら、どんな風に見えるのだろう?そんなことも考えました。と同時に、作品を持ってくることはできても、あの宮崎の状況・背景自体は、持ってこられないんだなぁ、とも思いました。
永山さんの作品自体は、やっぱり、今日みたいに観客が静かに見ていてくれる方が、集中して見れるし、その方が、ぼくは劇自体を楽しめました。と同時に、1年前、観客が次々に遅れてきて、途中でトイレを探してウロウロしながら舞台上に歩いて出て行ってしまうお客さんもいた宮崎の状況自体も、すごい面白かったのです。そして、そういう状況を知っていてか、永山さんは、わざと客席同士が向かい合って、舞台を見ながら観客が見えるような配置にしていたのです。そういう状況の中で演劇を模索しているのが、みやざきまあるい劇場。
シンポジウムを聞いて、「不条理」という言葉が何度も出ました。これは、演劇の言葉で、「不条理劇」という言葉はあるが、多分「不条理音楽」とか「不条理ダンス」とか「不条理美術」という言葉は聞いたことがないです。他のアートの分野は、どうやっても不条理なので、敢えて言う必要がないのかなぁ、とも思いました。不条理劇という考え方が、他の芸術分野にどういう影響を与えた歴史があるのかないのか、気になりました。
これからも、着実に、コツコツと続けていくであろう宮崎の人々の演劇の未来を楽しみにしてます。