野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

こわれもの全員集合して、その後

エイブルアート・オンステージの第3期、新潟で「スーパーこわれものの祭典」というイベントがありました。このイベントは、「病気だよ、全員集合」をキャッチフレーズに、鬱病アルコール依存症摂食障害、引きこもり、脳性麻痺統合失調症などの病気の体験者が、自分自身の生きざまをパフォーマンスで届けるメッセージの祭典、というものです。新潟市芸術文化会館の能楽堂で行われていまして、客席は超満員でした。

次から次に出てくる出演者は、司会者のインタビューにより、病気について簡単に紹介をし、その後、自分の体験に基づくパフォーマンスをします。「こわれもの」というテーマなので、パフォーマンスが「こわれ系」なのか、と予測していたのですが、パフォーマンスの形式自体は、ギターやピアノによる弾き語り、朗読、一人芝居、コント、とオーソドックスな形式にのっとっています(かなり笑えるものから、しっとりしたもの、泣けるものまで、いろいろありましたし、プロっぽい見せ方の人から、初舞台でテクニックなしの気持ち一発の人まで、表現技術もいろいろ全員集合でした)。デタラメな言葉をしゃべったり、意味不明の踊りをしたり、理解不能な音響を鳴らしたり、ということは皆無で、いわゆる大衆になじみのある表現形態が並んで、一人ひとりの舞台上での立ち姿や存在自体のインパクトが「こわれもの」ということらしい。でも、ある意味、こわれた感じの人はいなくって、みんなある意味、普通な人なんです。そういう意味でいうと、現代は普通の人は、みんな病気で、この舞台上の人は、病気であることを舞台で宣言している人で、客席にいる人は、病気を隠していたり、認めていない人、という感じなんでしょうか。


話を聞いていると、引きこもりなどで、対人恐怖があった人が、舞台上で人の視線を浴びた状態でステージに立っていることが、大事件なのです。それが、数年前からステージに立ち続けて、かなり熟練してきて、舞台に立つことに慣れてきた人と、つい最近、うつになったばかりだったり、立っていること自体がしんどいのに舞台上にいたりする人など、存在の仕方のテンションも人それぞれで、とにかく確かに、「全員集合」で、それぞれのそれぞれの状態が、もちろん演技もあるのですが、できるだけそのまま舞台に出ていましたし、出すように心がけているようでした。

「こわれものの祭典」の存在が、多くの人を勇気づける役割を担っていることが、感じられました。そして、インタビューを聞いていくと、他者と比較されることを意識しすぎたり、人と仲良くしたいと意識しすぎて対人恐怖症になって引きこもってしまったりする経験のある演じ手たちが、まず、安心して表現していいし、社会通念として駄目と否定されてきた部分をさらけ出して、それでも大丈夫という安心感が得られる場を作ることが、大切だということも、想像できました。

「こわれものの祭典」は、これからも続いていくでしょう。それは、多くの人に勇気を与えていく場になったりしていきます。で、「全員集合」した後、集合したパフォーマーたちは、ここから何かをゆるやかに始めていくのでしょうか?お互いの表現に刺激されたり、相互作用がゆるやかにあったりして、何が始まるのか、ぼくは見てみたいです。マイノリ・マジョリテ・トラベルでの羊屋さんの仕事について、いろいろ考えたりさせられました。メンバーとがっつりディスカッションして、事実をベースにフィクションを微妙に織り交ぜながら、羊屋作品として演出したことと、今回の各自が事実を語って、自分の表現をそのまま直球で投げてくるステージの違い。

でも、なんだか、相互作用があって、コラボレーションが、とすぐ先が見たくなります(実際、今日のステージでも、朗読の背景でピアノの即興演奏をしたり、作詞・作曲などで共作があったり、いろいろ始まりかけています)。が、でも、まずは、現状を全面的に肯定したいと、今日のステージ上では思いました。そこから、何かが始まっていったらいいな、と希望しますが、無理して始めることもないし・・・。あとは、もっと観客に野次られたり、突っ込まれたりするくらいになったら、客席にいても居心地がいいと思います。観客のあたたかい視線や拍手が、本心の時と、うそっぽいときがあって、うそっぽいときは、客席で居心地が悪くなるんですね。

終演後の楽屋での空気感がとてもよかったです。居心地がいいのですね。「こわれものの祭典」の楽屋の秘訣は、居心地がいい場所を作っていくことみたいです。とにかく、皆さん、お疲れ様でした。そして、公演のご成功おめでとうございました。