野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

ピアノの本音、いよいよ明日です

明日の「ピアノの本音」第4回に向けて、レジュメ/プログラムを作成する作業。これは、普通のピアノソロのコンサートのプログラムを考えるよりも断然むずかしい。というのも、調律師の上野さんの思いをどうやって聴衆に伝えるか、が難しいのだ。

 

上野さんは音にとことんこだわっている職人だ。それは、無農薬農法にこだわっている農家や、オーガニック食材にこだわっている料理人や、自然素材にこだわった衣服をつくっている人などと似ているかもしれない。本人は、その世界にのめり込んでいて、微細に差異も明確に判別できる。ところが、そんな生活を送っていないものからすれば、ジャンクフードに馴染んだ舌に、オーガニックフードが美味しいと力説しても、なかなか腑に落ちなかったりする。

 

つまり、ぼくに課せられた仕事は、上野さんの追求する究極のピアノの音色を、身構えなくても、ピアノのことよくわからないけど、単純に美味しいな、いい音だなぁ、と感じてもらえる時間と場をつくることだ。ということは、どういうことか、と言うと、ぼく自身が身構えたり、緊張したりすることなく、リラックスして、その究極の音色を、ひょいっ、とお客さんにカジュアルに提示することが必要だと思うのだ。

 

そして、ピアノのことなんか、全然わからない。音のことなんか、さっぱりわからない。物理学も音響学も調律も、さっぱりわからない。ということを前提に、上野さんの究極のピアノの音を届け、説明する。いやぁ、今日、1日、ああでもない、こうでもないとやって、すごく楽しい感じで、プレゼンできるプランにたどり着けた。

 

そして、これをやりながら、「問題行動ショー」のための作曲も、また少し進めた。

 

夜は、「だんだんたんぼ」の関係者による打ち上げで、楽しく交流。

 

「ピアノの本音」は、明日。

14時開演

@Stimmer Saal(JR守山駅より徒歩5分)

前売2000円

当日2500円

出演:野村誠(ピアノ/鍵盤ハーモニカ/おはなし)、上野泰永(調律/おはなし)、Gardika Gigih Pradipta(ピアノ/鍵盤ハーモニカ/おはなし)

 

プログラム(予定)

野村誠作曲「十和田十景」(2019 世界初演)

1 ある晴れた日のゾボップ(十和田市現代美術館
2 あんこはわんこ幼稚園(十和田カトリック幼稚園)
3 扉はいつもあいている(カトリック十和田教会)
4 ピアノ教室とあいとくん(ゆみこピアノ教室)
5 南部裂織保存会(小林さん宅)
6 コミュニティセンターのドルチェ(ピアノサークル・ドルチェ)
7 流木と絵本(小原さん宅)
8 オルガンとピアノ(ひかり保育園)
9 四世代(繋さん宅)
10 フォークダンス夫妻の山登り(工藤さん宅)

 

 Gardika Gigih Pradipta作曲 A lesson about sound(2019 世界初演

 

ほか

 

 

十和田のまちのピアノをめぐるちいさなツアー

3月に行った「十和田のまちのピアノをめぐるちいさなツアー」の動画が公開になった。お宅にお邪魔し、それぞれのピアノにまつわる物語を聞き、ピアノを即興で弾いた2日間。いろんな出会いがあったことが、懐かしい。このツアーの体験をもとに、その後「十和田十景」という10曲のピアノ曲を作曲。明後日のコンサート「ピアノの本音」で、世界初演する予定。この十和田での時間を、明後日は滋賀の人々と追体験

 

www.youtube.com

明後日の「ピアノの本音」@Stimmer Saalに向けて、準備中。ピアノを弾くだけでなく、ピアノについて調律師の上野さんと語るので、そのためのレジュメも作成。野球のピッチャーとボールの関係に喩えて、鍵盤とハンマーの関係を説明したりする。

 

FEDEXの集荷が来て、無事に「しょうぎ作曲」の楽譜をロンドンに発送完了。7月にロンドンでの図形楽譜の展覧会で展示される。現地で額装のアイディアを練ってくれるので、早めに発送。どんな展示になるのだろう。行けないのが悔しい。

 

「問題行動ショー」の作曲も進めている。クラリネットとヴァイオリンとピアノの3重奏。香港のi-dArtの人たちは、毎日、毎日、同じような絵を描き続けている。あの悩まずに、どんどん描き続ける姿に触発されている。とりあえず、楽譜を書き続けて、どんどん上書きするように書いていくと、どんな音楽が残るだろうか。もう既に、曲を書いている今でも、ぼくの中で佐久間さんや砂連尾さんが踊っている。そして、巌埼さんのヴァイオリンと吉岡さんのクラリネットの素晴らしい音と共演するのが楽しみで仕方がない。

 

高砂部屋の朝乃山が、優勝争いのトップにいるのだが、今日の栃ノ心にはなかなか勝てないだろうなぁ、と思っていたら、勝負審判の物言いで思わぬ白星が転がり込んで、単独トップに。

 

 

ピアノの研究

本日は、即興とピアノを教える日。ピアニストの方が訪ねて来て、色々、ピアノと即興を巡って、いろいろお話をしたり、即興をしたり、ピアノを弾いたりする。とりあえず、「十和田十景」の10曲を初見で弾いてもらったり、「福岡市美術館第2集」の9曲を弾いて聞かせたり、弾いてもらったりする。モンポウの左手のための曲を弾いてもらう。ギギーの新曲を初見で弾いてもらう。そんなことをしているうちに、だんだん日曜日の「ピアノの本音」でどんなことをするのか、どんな話をするのかを聞いてもらい、実際に聞いてくれる人がいると、参考になって助かる。例えば、ピアノを弾く時に、椅子はどこに置くのか。どこを正面をして座るのかを考え始めると面白い。ピアノの歴史とともに、ピアノの鍵盤数はどんどん増えていっているのだが、その時々で、真ん中になる鍵盤は違う音である。ミとファの間が全体の真ん中だった時もあれば、ドが真ん中だった時もある。この鍵盤の中心の位置とペダルの位置が一致するわけではないことも、面白い。他にも、実際にピアノの中を見てもらいながら解説したり、鍵盤ハーモニカと比較して解説したりする。日曜日の「ピアノの本音」(@Stimmer Saal)の見通しが立つ。

 

その後は、「問題行動ショー」の作曲を少し進める。そして、一年前の香港の頃の日記を読み、いろいろ思い出し、ドキドキする。

 

外ではカエルが鳴いている。

 

 

 

 

カエルも鳴き始めている

京都の自宅のあたりで、カエルが大合唱を始めた。昨年のこの時期は、香港に3ヶ月行っていたので、2年ぶり。カエルたちの声を聞くのが、楽しい。昨年は、蛍も見られなかったので、今年は蛍も見たい。

 

さて、今日も、自宅でピアノに向かう。今度の日曜日には、調律師の上野さんのStimmer Saalでコンサートをするので、リハーサル。そして、ピアノを練習しているうちに、昨日作曲し始めた「問題行動ショー」のための新曲の作曲に手をつける。ヴァイオリンとクラリネットとピアノのトリオ。昨日書いたヴァイオリンパートやクラリネットパートを、鍵盤ハーモニカで吹いてみる。そして、また、作曲する。

 

午後は、髪を切りに出かける。髪の毛一本一本の声を聞いて髪を切るゴトウ美髪店。一度にばっさり切ることはなく、細かく少しずつ切っていく。髪を切ってもらうことで、いろいろ感性が研ぎ澄ませれたり、新しい着想を得たりする。2時間くらいかけて、髪の毛が右に行ったり、左に行ったり、いろんな方向に行き来しながら、髪型ができあがっていく。

 

夕方は、中学生と保育園児の二家族とのファミリー音楽セッション。ぼくがピアノを弾いて、みんなが色々な打楽器をするのも楽しかったが、その後、5歳児の仕切りで、みんなで音を出すのをやめたり、始めたり、順番に音を出したり。楽しく、おかしい時間。

 

 

 

また作曲が始まる

本日は、鍼灸に行って、体の調子を整えてもらう。最近、主に自宅で自炊中心の暮らしをしているためか、ここ数ヶ月で一番状態がよかったようで、嬉しい。

 

鍼灸といえば、5月26日(日)のコンサート「ピアノの本音」でご一緒する調律師の上野さんは、ある意味、ピアノの鍼灸師のような人だ。ピアノの調律をするだけでなく、ピアノの健康状態を、全体のつながりを通してみていく。問題のある患部だけを見るのではない。ピアノの音色を豊かにするために、ピアノのアクションをスムーズにするために、思いも掛けないちょっとしたネジの締め具合などで、劇的に世界が変わる。そして、そうしたピアノ技術者としてのノウハウを、音楽家が共有したら、ピアノ音楽は革命的に変わるはずだ、と言う。

 

「ピアノの本音」に向けてピアノを練習/研究しているうちに、6月29日の「問題行動ショー」で演奏するヴァイオリンとクラリネットとピアノの曲を作曲したい気持ちがムクムクと湧き上がってきて、突如、作曲を始める。この3月に「十和田十景」の10曲、5月に「福岡市美術館第2集」の9曲と、小品を19曲書いたので、15分以上のボリューム感のある曲を書いて、その時間の中で、音楽は万華鏡のように七変化するのだ。砂連尾さんや佐久間さんに踊ってもらうのだ。とりあえず、どんどん好き放題書いていく。書いていくうちに何かが立ち現れていくのだ。香港の様々な記憶も、その他のことも、なんでもありの音楽にしたい。

 

その後、JACSHA(日本相撲聞芸術作曲家協議会)の打ち合わせで、「オペラ双葉山」をどう展開させていくのか、いろいろ頭を悩ませる。

 

 

 

 

風呂敷は広げた方がいい

今度の日曜日(26日)のコンサートに向けて、相変わらず自宅でピアノを研究中。ピアノを弾き始めて45年ほどになるが、この年になっても発見も多く、上達できることも多いので、日々稽古や研究が楽しい。今日は、主に、Gardika Gigih Pradiptaの新曲「A lesson about sound」の練習を中心に、ピアノの本音を探っていた。

 

ノムラとジャレオとサクマの「問題行動ショー」(6月29日@アクア文化ホール)に向けて、舞台監督の高岡さん、照明の藤原さん、プロデューサーの柿塚さん、ダンサーの佐久間さんとの打ち合わせ。

 

佐久間新と砂連尾理という二人のダンサーの夢の共演。ここに、野村のピアノが加わる。これだけで、かなり楽しみなのに、「問題行動ショー」というタイトルをつけたので、結構、色々やっても大丈夫そうで、スタッフの少ない中、高岡さん、藤原さんも、様々な解決方法を出してくれる。劇場でやっているからこその照明などの効果を最大限に活かしつつ、しかし段取りや取り決めを最小限に抑えて、ライブ感を最大限に引き出すか、がポイント。佐久間さんや砂連尾さん、香港のi-dArtから来る13人のパフォーマーなどのメンバーが、いかに伸び伸びと面白いことができる環境を用意するかを、考えている。

 

それにしても、佐久間さんの考えるダンスって、本当に面白いなぁ。なんじゃそりゃ、と思うようなことを、真剣にやっている。この佐久間さんの独自のダンスに、野村は、即興でもいくらでも応えられるけれども、今回は、ピアノとヴァイオリンとクラリネットのトリオで、新曲「問題行動ショー」も作曲しようと思っている。

 

香港から衣装が届いた。衣装も面白くなりそう。佐久間さんも変なアイディアいっぱいあって、面白い。ホールの備品リストを見ているだけで、またアイディアが出てくる。とりあえず、せっかくこの座組みでできるので、思う存分のびのび楽しみたい。広げられる風呂敷は、いっぱい広げよう。リスクを警戒し過ぎて、早々に風呂敷をたたむのではなく、風呂敷を最大限に広げた上で、どうリスクを避けるかを考える。

 

夜は、門限ズの打ち合わせ。こちらは、6月1日、2日の九州大学でのワークショップ。2日間で合計10時間の濃密なワークショップで、こちらも、アイディアが次々に溢れてきて、すごく面白くなりそう。風呂敷は広げた方がいい。

 

 

 

排除について

排除の話。

できる、できないの話。

英語で障害者という言葉は、people wtih disabilityとか、disable peopleとか言う。abilityが能力で、disabilityはその反対の言葉。

世の中にいる人は、みんな、できることもあるけど、できないこともいっぱいある。だから、誰もが色んな意味で、people with disabilityだ。

もし、できない人はいない方がいい、排除されるべきだ、っていう言うならば、世界中の人間が全部いなくなったらいい、ってことになってしまう。それは、寂しいなと思う。

かつて、作曲していて、ぼくの考える音楽のアイディアなんて、全部、つまんなくって、全部ダメで、全部ボツだ、と思っていた。研ぎ澄まされたものを作る理想を追い求めるのが創作だと思っていた。

だから、〆切が近づいても、自分のアイディアなんて、全部ダメ。でも、結局、自分の才能のなさに諦めた後、必死に曲を書いていた。

でも、そうやって全てを切り捨てるのって、なんだろう?って思った。

つまんなくって、ボツで、価値がない、って切り捨ててるものに、実は魅力がたっぷりあるんだ、って信じられるようになった。

いろんな魅力やいろんな欠陥を兼ね備えている人間たちが共存いる社会って、なんて美しいんだろう、って思った。

そう思って以降は、ボツとかダメとか思わなくなった。そこにどれだけの魅力を感じられるかどうかが、作曲家の一番大切な仕事だと思った。

西洋のクラシック音楽は、嫌いじゃなかったが、何か、排除される感じがして、いつからか嫌煙するようになっていた。だって、チューニングが美しくハモるオーケストラのハーモニーは非常に美しいけれども、そこに音痴が入ると台無しになるから、音痴は入っちゃいけない。そうした排除の論理があると思って、気がつくと、ぼくの側からもクラシック音楽を、排除していた気がする。さらには、大好きだった現代音楽にも、いつの間にか一線を引いて、ぼくの方から排除していた。

5年前に、日本センチュリー交響楽団というプロのオーケストラのコミュニティ・プログラム・ディレクターに就任した。これまで、無意識に排除していたクラシック音楽。そして、無意識に排除されていると感じてしまっていたクラシック音楽の世界。実際に接してみると、そんなこともなかった。

ああ、ぼくは、どうして、勝手に線を引いて、排除していたのだろう。

ぼくは、クラシック音楽や現代音楽を排除することをやめようと、50歳を前にして、ようやく思えた気がする。

実際、ぼくは10代までは、現代音楽にすごく興味があって、現代音楽の作曲を勉強したかったはずだ。しかし、独学で道を進むうちに、現代音楽の巨匠たちを無視して、こどものいたずらや、子どものデタラメ演奏を師匠にして、自分の音楽の道を切り開く決意をした。現代音楽と決別して、お年寄りとの共同作曲や、音楽療法のセッションを見学したりして、独自の音楽を模索したのだ。

でも、今は思う。かたくなに拒んでても仕方がない。クラシックや現代音楽の巨匠の作品を、頑固に排除してたのは馬鹿らしくなり、もっともっと素直に学んでみたいなと思う。そして、ぼくもいっぱい作品をつくっていきたい。

でも、排除するっていうのは、生物として身を守るために持っている資質ではあると思うので、排除していることに自覚的にならないと、無意識に排除してしまう。でも、音楽は一人ではできない。人と人が出会ってできるもの。ドアを開きすぎると、傷つきすぎるかもしれないけど、でも、できるだけ排除したくない。だから、排除を避けて、できるだけ自覚的でありながら、ものを作っていきたいと思う。

 

今日は、ピアノを弾いたり、スコアを読んだり、作曲のアイディアをスケッチしたり、確定申告の事務作業をしたり(いつまでやっているのやら)、掃除や洗濯をしたり、読書をしたりと、買い物に出かけた以外は、ずっと自宅におりました。