野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

排除について

排除の話。

できる、できないの話。

英語で障害者という言葉は、people wtih disabilityとか、disable peopleとか言う。abilityが能力で、disabilityはその反対の言葉。

世の中にいる人は、みんな、できることもあるけど、できないこともいっぱいある。だから、誰もが色んな意味で、people with disabilityだ。

もし、できない人はいない方がいい、排除されるべきだ、っていう言うならば、世界中の人間が全部いなくなったらいい、ってことになってしまう。それは、寂しいなと思う。

かつて、作曲していて、ぼくの考える音楽のアイディアなんて、全部、つまんなくって、全部ダメで、全部ボツだ、と思っていた。研ぎ澄まされたものを作る理想を追い求めるのが創作だと思っていた。

だから、〆切が近づいても、自分のアイディアなんて、全部ダメ。でも、結局、自分の才能のなさに諦めた後、必死に曲を書いていた。

でも、そうやって全てを切り捨てるのって、なんだろう?って思った。

つまんなくって、ボツで、価値がない、って切り捨ててるものに、実は魅力がたっぷりあるんだ、って信じられるようになった。

いろんな魅力やいろんな欠陥を兼ね備えている人間たちが共存いる社会って、なんて美しいんだろう、って思った。

そう思って以降は、ボツとかダメとか思わなくなった。そこにどれだけの魅力を感じられるかどうかが、作曲家の一番大切な仕事だと思った。

西洋のクラシック音楽は、嫌いじゃなかったが、何か、排除される感じがして、いつからか嫌煙するようになっていた。だって、チューニングが美しくハモるオーケストラのハーモニーは非常に美しいけれども、そこに音痴が入ると台無しになるから、音痴は入っちゃいけない。そうした排除の論理があると思って、気がつくと、ぼくの側からもクラシック音楽を、排除していた気がする。さらには、大好きだった現代音楽にも、いつの間にか一線を引いて、ぼくの方から排除していた。

5年前に、日本センチュリー交響楽団というプロのオーケストラのコミュニティ・プログラム・ディレクターに就任した。これまで、無意識に排除していたクラシック音楽。そして、無意識に排除されていると感じてしまっていたクラシック音楽の世界。実際に接してみると、そんなこともなかった。

ああ、ぼくは、どうして、勝手に線を引いて、排除していたのだろう。

ぼくは、クラシック音楽や現代音楽を排除することをやめようと、50歳を前にして、ようやく思えた気がする。

実際、ぼくは10代までは、現代音楽にすごく興味があって、現代音楽の作曲を勉強したかったはずだ。しかし、独学で道を進むうちに、現代音楽の巨匠たちを無視して、こどものいたずらや、子どものデタラメ演奏を師匠にして、自分の音楽の道を切り開く決意をした。現代音楽と決別して、お年寄りとの共同作曲や、音楽療法のセッションを見学したりして、独自の音楽を模索したのだ。

でも、今は思う。かたくなに拒んでても仕方がない。クラシックや現代音楽の巨匠の作品を、頑固に排除してたのは馬鹿らしくなり、もっともっと素直に学んでみたいなと思う。そして、ぼくもいっぱい作品をつくっていきたい。

でも、排除するっていうのは、生物として身を守るために持っている資質ではあると思うので、排除していることに自覚的にならないと、無意識に排除してしまう。でも、音楽は一人ではできない。人と人が出会ってできるもの。ドアを開きすぎると、傷つきすぎるかもしれないけど、でも、できるだけ排除したくない。だから、排除を避けて、できるだけ自覚的でありながら、ものを作っていきたいと思う。

 

今日は、ピアノを弾いたり、スコアを読んだり、作曲のアイディアをスケッチしたり、確定申告の事務作業をしたり(いつまでやっているのやら)、掃除や洗濯をしたり、読書をしたりと、買い物に出かけた以外は、ずっと自宅におりました。