野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

古琴→フアヒンの芸術高校

アナンと地下鉄の駅で待ち合わせる。地下鉄から電車に乗り換え、電車を降りると、アナンの学生(民族音楽学の大学院生)の運転で車で移動。例によってバンコクの渋滞につかまる。今日は古琴のワークショップに行くのだが、古琴の奏者の家が郊外にあるようだ。1000万人規模の大都市だが、電車や地下鉄がわずかしかないので、バンコク内での移動に常に2〜3時間かかってしまう。車の中で話をしたり、携帯で電話をしたり、facebookをしたりして、渋滞の時間も楽しむのがバンコク流のようだ。

古琴の奏者の名前はチャッチョン。チャッチョンの家に行くと、そこには、古琴だけでなく、日本の箏、中国箏など、様々な楽器が並び、中国語の文献が本棚に並んでいる。アナンの民族音楽学の大学院生が既に数人到着しており、ミャンマーのお茶を飲んでから、セミナーが始まる。レクチャーはタイ語なので、想像しながら聞く。七絃あり、これが、中国の5音音階に調弦されていることは分かった。左手で押さえる場所の目印で、白い点がうってあり、これが、主にハーモニクスのポイント。それにしても、音量の小さい味わい深い楽器だ。正倉院の展示や台湾の故宮博物館での展示などで眺めるだけだった楽器。源氏物語などで光源氏が演奏するのを想像するだけだった楽器の演奏、初めて聞く。日本では、平安時代と江戸時代と、少なくとも2度伝わってきている楽器なのに、どうして定着しなかったのだろう。味わい深い楽器だなぁ。チャッチョンは、古琴の楽譜も色々持っている。楽譜を見せてもらうと、漢字のようで、見たことのない漢字が並んでいる。よく見ると、一つの漢字の中に、複数の漢数字が書いてあったりする。一つの数字は、左手でどの弦を押さえるかを示しており、別の数字は左手は、その弦のどのポジションを押さえるかを示しており、別の数字は、右手のどの指で弦を弾くかを示しており、もう一つのところが右手で、どんな弾き方で弾くかを示している。(以下のYouTubeリンクは、チャッチョルの演奏)

午後は、即興セッション。即興セッションになったら、チャッチョンは日本の箏を演奏し、ジュークが胡弓、アナンは様々な民族楽器、ボーイがなぜか尺八を担当し、他にギターなどを演奏する学生。これはこれで悪くはないが、他の楽器の音量を意識して、チャッチョンは日本の箏で演奏したのだろう。ぼくは「古琴を演奏し、みんなが古琴よりも小さい音で演奏しよう」と提案する。他の学生が、「古琴はキーはFなんだっけ?」と聞くと、アナンが「古琴よりも小さく演奏すれば、何を演奏してもいい」と言う。そして、古琴に合わせて、紙を擦るアナン。そこから、本当に繊細な微かな音での合奏が行われた。タイで最初にできた共同作曲は、「一番音の小さい楽器より大きい音を出さない」という曲。例えば、ディスカッションをする時に、「何を話してもいいが、一番声が小さい人よりも大きい声で話してはいけない」、というルールでディスカッションをしたら、一体どうなるだろう?そんなことを考えた。

濃密な古琴のセッションを経て、チャッチョンの家を出て、電車の駅まで車で送り届けてもらう。ここは、バンコクの郊外で、どうやら東の方らしい。電車で町の中心まで出て、そこからタクシーに乗り、バンコクの西側に出るまでに1時間半近くはかかっただろうか。そこで、ダンサーのペーちゃん(ペトラ)とエンちゃんに出会う。ペーちゃんは、日本人のダンサーと結婚した長身のダンサーで、日本語もできる。いきなり「かまへん、かまへん」と関西弁。尼崎に数年住んでいたらしい。がっしりとした体格だ。エンちゃんの方は、女性のダンサー。ペーちゃんの運転で、バンコクから車で3時間南に行ったフア・ヒンという町を目指す。フア・ヒンにあるPatravadi High Schoolを目指す。パトラヴァディ(パトラ)という演出家が作った学校で、ペーちゃんもエンちゃんも、伝統舞踊の授業をするために、週一回通っているようだ。その次の日には、ピチェというコンテンポラリーのダンサーが、創作舞踊を教えにくるらしい。到着して驚いたのは、想像よりも遥かに大規模な学校だったことだ。敷地も広い。芸術パークの中に学校があるというイメージだ。宿泊施設も完備されている。アナンの話では、パトラは、タイで最も著名な女優で演出家だそうだ。日本で言えば、吉永さゆりくらい活躍した大女優が、演出家としても野田秀樹くらい活躍し、億万長者になって、そのお金で芸術パークを作り、その中に演劇やダンスを勉強するために学校を伊豆あたりに作り、校長先生になったといったところか。そこには、通常の授業のために、東京から毎週一回、野村萬斎も、近藤良平も、教えに来ているといったところか。とんでもない所に来た、という予感。