野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

十年音泉

「十年音泉」の全体のコンセプト・理念として、「おかえりなさい」、「居場所をつくる」を掲げてみたいと思いました。

この10周年のプログラムに参加して、途中で離れて行った人はいっぱいいます。えずこホールの10年間でも、途中で関わりをフェイドアウトした人もいっぱいいます。そういう人が帰ってきやすい雰囲気を、ぼくたちは作っていられたか、ということを考えています。最後の第5音泉の祝電フィナーレでは、ぼくたちは、誰と何を祝うのでしょうか?ワークショップを最後までやめずに残った人だけが舞台にいて、そのメンバーでステージの成功を祝うようなフィナーレでは絶対にありません。出演者も観客もスタッフも、それぞれが、それぞれの関わり方でそこにいて、みんなが違ったスタンスで、でも居場所がある状態で、「10周年」を祝いたい。そして、色んな距離感の色んな人が、色んな立ち居地で存在できる場を作る。それこそが、ぼくが作曲する演劇交響曲ではないのか?

プロの音楽家だけで演奏する音楽では達成できないような世界を、ぼくは、今までやって来ました。アマチュアの人を訓練して、プロの真似事をさせるのでは、お稽古事でまねっこで、つまらないです。この地域の劇場に集う地域の色んな立場の人が、くせのある人や、ちょっと難しい人が、どうやって共存していくのかを、実現できないようでは、演劇交響曲でも何でもない。演劇交響曲の中には、人間関係のトラブルも、恋愛も、家庭の事情も、職場の問題も、組織の運営の問題なんかも、全部あって、でも、微妙なバランスで成立していく場が演劇交響曲です。「交わり」、「響く」です。

そう考えた時に、第4音泉の最後で、出演者とか観客とか、ステージとか客席とか、色んな壁が取っ払われなければ、いけません。藤さんの美術プランでは、袖幕もいろんなセットも全部取っ払われて、舞台がなくなって宴会場が出現するイメージです。そして、この第4音泉の最後には、えずこホールに関わっているすべての人が、色んな立場で、その場に存在できる場を生み出したい。掃除のおばちゃんが掃除をしていたり、カフェのスタッフがおにぎりを売りに来たり、照明さんが照明を手直ししていたりしててもいい。それと、ワークショップに途中から来なくなった人にも、「おかえりなさい」と迎えて、公演が終わった後に、また一緒にやれるような関係を生み出せるきっかけの場にもしたい。

初めて来た観客に、「素晴らしい、面白い」と思ってもらうだけでは、大失敗だ。「いいな、私もやってみたい」、「私も何かの形で関わってみたい」、「関わればよかったなぁ」、「何かを始めよう」という気分にさせることをやりたい。

これは、ワークショップの成果を発表する発表会ではありません。これからのえずこホールがどういう場を目指すのか、という宣言だと思う。現状のえずこホールは、下手をすると「城」のようになりかねない。堀に守られて、外敵にさらされない。一部の住民たちのシェルターのような役割にもなりえる。そのこと自体にも存在意義は十分あると思います。社会の中で居場所がないから、自分の居場所を求めて、ワークショップにやってくる人がいても、いいと思う。でも、そこに自分の居場所を築く人が増えていくと、今度は、無意識のうちに余所者や考えの合わない人が入りにくい「城」のような場になりやすくなる。無意識に、色んな人が排除されていく。そうなると、だんだんメンバーが固定化されて、風通しが悪くなり、活動が停滞していってしまう。そうなってしまう危険性をはらんでいると思います。だから、柏木くんは、自主稽古を禁止して、その代わり、ほかの活動を見に行って、色んな人ともっと交流してください、と言ったのだと思います。この自主稽古禁止に、柏木くんはえずこホールの未来を託したのだと思います。

えずこホールは、「広場」になるべきだ、とぼくは思う。色んな人が、気が向いたときに、ふらっとやって来れるような場所。3ヶ月ワークショップにきてなかった人が久しぶりにやって来れるような場所。久しぶりに来た人も、「おかえりなさい」と迎えられるといいと思う。

だから、ぼくは、この作品のテーマとして、「おかえりなさい」を提示したい。第2音泉では、「あの森」と「この森」の境界線がはっきりあって、「あの森」には、なかなかいけないのです。「あの森」はある種のユートピアのような存在として語られていますが、そこには、老いも若きもない。色んな人が共存できる場だと、明神テキストは語っている。その「あの森」は幻覚の森なのだけど、でも、ぼくたちは、この「あの森」を出現できるべく、誇大な妄想を抱いて、演劇交響曲うを作っているのです。そして、躊躇してはいけない「あの森」に舞台を捨てて旅立つ人がいる。

第3音泉になると、観客と舞台の境界線を、少し越えようとして、わたなべなおこの手法で、観客参加劇を試みます。しかし、フラットな関係には、もちろん行けるわけではありません。「あの森」への道のりは遠いのです。

だから、第4音泉では、「あの森」まで行く覚悟で望まなければ、まったく意味がないと思う。これは、メタファーとして言っているので、実際の演劇交響曲を見ても、続いているストーリーなどは、何もありませんが、それでも、ぼくたちのステージは、それを目指しているのです。第4音泉のクライマックスで、舞台だけで繰り広げられていた世界が、もっともっと広く他者を受け容れていけるようなシーンにしたい。今までワークショップに来ていなかった人が、その日に来ても参加できるような場面に到達するところまで、展開しきった先に、第5音泉の宴会があるようにしたい。

とか、いろいろ考えました。夜は、えずこウインドとの練習。ようやく、譜面の細かいテンポチェンジやアーティキュレーションなどの解読をして、最後にぼくは言いました。「ずっと(小姑のように)細かいこと言いましたが、ぼくは皆さんに思いっきり遊んで欲しいし、のびのび演奏して欲しい。そのために、まず、これをする必要があると思うから、譜読みをとにかくしました。個人でも、しっかり譜読みをいしておいてください。その先に、音楽のうまみがありますから。」いよいよこれからです。