野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

音楽と創造1

 ジョグジャの芸大の大学院へ。「音楽の創造1(Penciptaan Musik 1)」という授業。学生は6人。先生は、隔週でロイケ先生(西洋音楽の作曲)とワヤン先生(バリ音楽/民族音楽学)が交互に教える。今日は、ロイケ先生の講義。ロイケは、実は2002年のぼくの集中講義の受講生で、彼が教えるのは初めて見るので、興味津々。
 講義は、早口のインドネシア語でスタート。板書が全然なく、喋り出す。今学期スタートの最初の導入の言葉は、20%程度しか理解できないが、何とか聞いて理解しようと努める。西洋音楽と伝統音楽の融合したこの講義について、ロイケが何度も、masalah(問題)、paradoks(パラドクス)という言葉を口にする。ロイケから「日本では?」と聞かれて、日本の音大の作曲の授業で、邦楽のバックグランドと西洋音楽バックグランドの人が一緒に学ぶなどということは、ぼくの知る限りない。日本の大学では別々で、大学以外では融合することもあるけど、これは面白いと答える。するとロイケは、面白いけど、難しい、大変だ、と言う。
 それから、teori(理論)についての話を始める。ロイケは、数冊の本を取り出し、それぞれの音楽の定義?音楽を成立させているものについて、語り始める。カウフマンによれば、《ピッチ、メロディー、ハーモニー(+対位法)、リズム、強弱、形式》の6つ、シュタインによれば、、、、、、といった具合。で、ある程度、進んで、再びコメントを求められたので、こうした《音の高さ、音の長さ、音の強さ、音の音色》というように音響学的に、物理学的に還元するのは一つの考えだけど、《音の表情》とかを、西洋音楽でもdolceとかcantabileとか表情記号で表したりするけれど、そうした音楽を物理学に還元するのか、文学に還元するのか、でも違って来るのでは、と言ってみる。しかし、語学力+内容もやっかいなので、伝わらない。で、「みんな、英語が分かる?」とロイケが生徒に聞いて、何人か手を挙げたので、英語で説明。ロイケは、「確かに。しかし、どうして、これらの本の中には、表情については理論化されていないのだろう?」と問う。そうした理論は、これから作らなければいけないのかもしれません。
 その後、hubungan social(社会との関係)という言葉や、musik dalam satu budaya(一つの文化の中での音楽)などという言葉は聞き取れたものの、議論の中心は分からない。でも、分かる単語を頼りに、勝手に議論を想像しながら、講義に参加するのも面白い。
 みんなが笑う。ロイケが、「マコトはsopan(礼儀正しい)けど、ぼくたちは、こんなのなんだ、ごめん」みたいなことを言った。学生6人は全員男性。どうも女性に関する何かジョークを言ったようだ。
 西洋音楽の和声(ハーモニー)の歴史について、語り始める。非常にざっくり、中世、ルネッサンスの時代は、モードで、バロック/古典派/ロマン派は、調性、その後にまたモードになり、無調になると言う。この辺の用語は、ほとんど英語と似ているので、検討がつく。専門用語が出れば出るほど、ぼくには分かりやすくなる。なかなか分からなかったのがtangga nadaという言葉。tanggaが階段なので、英語のスケールで、音階の意味だというのが、何度も聴いているうちに、分かってくる。ミノール、マヨールというのは、英語のminor、majorとぱっと結びつかなかったが、短(調)、長(調)のこと。ペロッグ音階を5線に書いた後、それを移調したりしていた。日本の音階についてコメントを求められ、たまたま、ロイケが「クモイとか、ぼくは和からない」と言うので、箏の雲井調子と平調子を説明した。雲井調子は、意外にペロッグ音階に似ているのです。
 ぼくが中川真さんやヨハネス・スボウォさんとサウンドスケープのコラボレーションをしたが、あれは誰の作曲かとロイケが聞く。何のことか、全く分からなかったが。
 授業が終わり、ぼくが作品のCDなどを、ロイケにプレゼントしようとすると、学生たちが、ぼくの曲のプレゼンをして欲しい、と言いだし、突如、来週の土曜日には、ぼくが自作をプレゼンする会が催されることになりました。この講義の受講生を対象に音源の紹介を中心にしようと思いますが、少しレクチャーもできるようにしたいなぁ。要勉強です。
 来週のワヤン先生の講義がロイケ先生とどれほど違う方向性から始まるのか、そして、その二つの間を行き来しながら、この講義はどこへ向かって行くのか?これは、毎週講義に出席して、その行方を見て行きたい、と思った。