野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

2004年第4場初演の日の日記より

 よりによって、「鬼が島での戦い」の場面を9月11日に上演することになった。フィクションの民話「桃太郎」だが、9月11日に戦いの場面を上演するからには、それなりの覚悟と考えがいる。ところが、マルガサリのメンバーと話をしても、そもそも誰も戦いたい、という動機自体がない。言語でディスカッションしても答えが見えないので、フィクションの世界の中で即興でカラダを動かしながら、戦いについてカラダで考えていった。
 そうして、出来上がっていった作品では、戦っている人の戦い始めた動機が、本当に些細なことだったのだ。しかし、いざ戦い始めてしまうと、戦いという空間が現出してしまい、とにかく戦い続けなければ存続できないので、目的も動機も分からずに、とにかく戦うことになる。
 
 この場面は、鬼4人、桃太郎+3匹の計8名の舞踊で表現されるのだが、鬼チームの4人は、プロの舞踊家2人を含むダンス経験者チームで、身体による表現力のある4人だが、桃太郎と3匹に選ばれた4人には、舞踊の経験がない。この8人で戦いを(セリフなしで)身体で表現するように設定したのだが、誰の目から見ても、鬼チームが圧倒的な力の差を見せつけることになる。
 だから、桃太郎軍は、通常の舞踊では歯が立たないので、「舞踊でない舞踊」に持ち込まなければならない。そうしなければ、ステージは鬼の独壇場になり、桃太郎の表現は観客に全く届かないからだ。結果、桃太郎たちは、ゲリラ的な手法で、鬼に踊らせないように、あの手この手で脱舞踊を促す。鬼は何とか舞踊に持ち込み、自分の力を見せつけようとする。
 練習当初は、何度やっても鬼の一人勝ちだった。桃太郎+3匹にステージ上での存在感がないのだ。存在感がなければ、ステージ上では死を意味する。桃太郎たちは生き残るために、必死に自分の存在感を主張する。踊りの技術がないから、技術ではなく、それ以外の方法あの手この手で、技術のあるプロのダンサー以上の存在感を出す方法を目指す。練習を重ねるにつれて、鬼は手こずり始めるのだ。桃太郎の存在感が増してきた。

 そして、4場の結末は、とんでもない結果になった。桃太郎が鬼を退治できず、3匹が死に、鬼の子分たちも死に、ついには桃太郎も死に、桃太郎を殺した鬼の大将も死んでしまうのだ。全滅だ。ステージ上での存在感を巡り、舞踊の技術を脱し、ゲリラ的な舞踊になっていく中、最終的に誰もが生き残ることができず、死んでいく。そして、死んだ人たちの霊が、桃太郎の死体を囲んで「かごめかごめ」をして遊ぶところで、第4場が終わる。
 笑いの多い第3場と続けての上演で、観客の人々もあまりにも壮絶な戦いと、予想もしない幕切れに茫然としてしまったようだ。でも、これが、ステージ上で(フィクションの世界の中で)見つけた4場の結末だった。

 ぼくらは、第4場でただただ戦い続けた。演奏者には、踊りを見て合わせることを禁止した。踊りに合わせる限り、ワンテンポ遅れるし、ワンテンポ遅れることは戦場では致命的だ。また、合わせている限り、存在感がなくなり、存在感のない音は戦いの中では死を意味する。考えたり、迷ったりしてもダメだ。その時点で死を意味する。
 だから、音の戦場では、戦い続けなければならないよう、音を出し続けなければならないのだ。そして、ちょっとした隙を見つけて、仲間と交信する。困った時は、自分の近くにいる一番強そうな演奏者を見つけて、必死に追いかけて追い付いて共演する。
 フリージャズでも、3〜5人くらいで即興することが多いと思う。15人ものガムランフル編成が、合図が一つもなく、しかも、お互いに耳をすますこともなく、周りの音をあまり聞かずに連射しながら、なおかつ曲調が変化したり、展開する。誰もが全体像を把握せず、指揮官となって統率する人もいない状態で、音が集合体として渦巻く。戦いの中にいると、本当に考えることができないし、考えることは死を意味するから考えてはいけない。とにかく、考えずに、自分の出している音が正しいとか間違っているとか、そんなことを判断もできず、それでも発音し続ける体験は、貴重だった。音楽という空間で、完全に戦いを疑似体験してしまった。
 こうして出来上がった音楽を、ぼくは客観的には全く聴いていない(これから録音を聴くことになるだろう)。観客からは、かなりの好感想を得た。ぼくらの音の戦いは成功したようだった。
 そして、戦いの後に残されたのは、来年第5場を作る、ということだ。ここからは、民話のテキストもない。すべてフィクションの空間の中で、創作していけばいい。この壮絶な戦いの後に残った絶望的な現実に、どうやって光を見出せるのか?本当に大きな課題だ。それをしなければ、ぼくら自身が今のこの現実からも目を背けることになる。第5場、もう後がない。ぼくの作曲のすべてを注ぎ込むしかないだろう。すべてを注ぎ込むだけでも、無理かもしれない。ぼくの作曲のすべてを捨てなければいけないかもしれない。その覚悟はできている。もう後戻りはできない。