野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

小学校が危険らしい!!


今日は、国分寺の小学校にゲスト講師として行く。昨日行った小学校の南さんとも仲間の斉藤さんが、ぼくに来て欲しいと頼んできた。
「遅れても全然平気ですから、遅れてもいいです。」
と前日電話で斉藤さんが言ってくれたので、少し家を早めに出て、送れずに行こうと思ったら、見事にバスを乗り間違えて、遅れて到着。

校門を探していたら下校中の低学年の子どもgが声をかけてくる。
「学校に何の用?子どもをいじめちゃダメだよ。」
それにぼくが、
「今から授業に参加しなくっちゃいけないんだ。ありがとう。」
と答える。

6年生の総合の授業。6年生は来るなり、
「うわぁ、見るからにアーティストって感じ。」
のような第1声。そして、ぼくが出てくるだけで笑いがおきた。すごい好奇心だ。そして、自己紹介代わりに演奏を聴いてもらった後、すぐさま、質疑応答コーナーになる。子ども達が次々に挙手をして、質問を浴びせてくる。これには、すごく驚いた。

実は、斉藤さんに初めて会った時、彼女は、
「うわぁ、すご〜〜い。」
のような歓声を何度もあげた。そして、
「もう一個だけ、聞いてもいいですか?」
といいながら、いくつもいくつも質問(「芸術性とは何ですか?」など)、を繰り出してきた。斉藤さんの教え子も斉藤さんそっくりだったので、びっくりした。生徒とは、これほどまでに、教師の影響を受けるのか、と驚く。

子どもたちは非常に好意的で、大変歓迎してくれ楽しい時間だった。実は、この学年は問題の学年で、非常に難しい学年と言われている、らしい。ぼくが対面した子どもたちからは、何の問題も難しさも感じられなかったけど、小学校に行くと大抵そうだ。いいな、と思った子が、「実はあの子は、問題児で」と必ずと言っていいほどコメントされたりする。確かに、ぼく自身、小学校の時は問題児のレッテルを貼られて、毎時間廊下に出されて授業をろくに聞かせてもらえなかった。今、思い起すと、授業を邪魔するつもりはなく、ただ、人より好奇心が旺盛だったり、自分の気持ちに正直にカラダが反応したりしていただけだったのに、先生には理解してもらえず、授業中に落ち着きがない、授業を妨害する、などととられたのだろう。

それで、ふと思い出したのが、中学時代、数学の先生が、
「野村、授業を聞かないでくれ!お前が授業に参加すると、授業が成立しなくなるんだ。だから、お前だけ授業を聞かなくてよろしい。その代わり、何か自分一人で数学の参考書を持って来て勉強しなさい。」
と言った。先生の言っている意味は分からなかったが、余程、ぼくが授業の邪魔だったらしい。

斉藤さんは、この学校に赴任して1年目。前任者は合唱や合奏を重視した授業をしたが、彼女は音を聴く活動や、創作の活動に重きを置く。子どもたちは戸惑ったが、徐々に適応した、らしい。
「合同音楽会で、自分達の創作曲をやろうと言ったら、子どもたちは最初はイヤだ、スターウォーズのテーマみたいな曲を合奏したいって。でも、最後には曲づくりをやる気になってくれた。」
というようなことを斉藤さん。

斉藤さんは、子どもの要望をはね除け、
「あたしは、こうしたいの!」
と自分の主張を、子ども以上に強く投げ返す、非常に珍しいタイプの先生だ。ごく普通のアプローチだったら、子どもたちがやりたいと動機を持っていることを、後押しするのだろう。ところが、斉藤さんは、
スターウォーズなんて、やってもつまんないし、こっちの方が私はやりたいの!」
と自分の主張を押し通そうとする。でも、これは、教師の傲慢ではない。子どもたちに、もっと強く主張し返して欲しい、もっと本当にやりたいことを考え、先生の主張を押し退けてでも「スターウォーズ」が合奏したいくらいなのか、を実は問い返しているのだ。そして、そうした彼女とのやりとりを通して、子どもたちは、少しずつ自己主張の仕方を体得していく。音楽を教えているかどうか、っていうより、かなり自己主張を教えている。そして、赴任1年目で、まだ自己主張が中途半端な子どもたちに不服なのだ。

と彼女との雑談を聞きながら、推測。ぼくは、やりたがっている合奏もやらせてあげればいいのに、と内心思いながら、しかし、自己主張ができないうちは、合奏してもつまんない合奏になるだろうな、とも思った。だから、斉藤さんのアプローチは正攻法だ。逆に、自己主張ができちゃえば、合奏だってみんなが主張し合う音楽づくりになって、面白くなるはずだ。

この斉藤さんのアプローチに近いのが、実はP−ブロッの鈴木潤さん。非常に温厚で優しい潤さんだが、音楽の練習となると話は別。意地になって、
「ここ、全然合ってないし、メトロノームに合わせて、正確にやった方がいいんじゃないか?」
などと主張し始める。練習の妨害しているんじゃないか、と思うくらい、しつこく同じ小節を何十回もやり続けるように仕向ける。実は、彼はただただ意地をはっているのではなく、そうやって揺さぶりをかけて、共演者から自己主張を誘発しようとしている。
メトロノームなんかに合わせなくていい!自分たちの独特のノリが出ればいい。」
と反論が引き出せれば、彼の策略は成功したことになる。そうやって、P−ブロッの演奏が平板になりそうな時、必ずと言っていいほど、潤さんが揺さぶり、今では潤さんが揺さぶる必要がないくらい、P−ブロッのメンバーは全員が自己主張をする演奏になった。だから、合奏が非常に面白い。

さて、その後、南さんを交えて、夕食。色々、楽しい話をいっぱいした後、恐ろしい話を聞いた。東京都の小学校は、校長の権限が強化されて、各教員の授業内容を細かく管理するようになった。今まで個性的な授業をして高く評価されていた先生を、校長が、
「あんなのは理解できない。」
と否定してしまうと、その個性的な授業は封じられてしまうことになる。反論しても、聞く耳を持たない校長だと、
「管理職の指導に従わない不真面目な教員」
というレッテルを貼られることになる。教師は管理職の目を気にしながら、授業をすることになるし、管理職は教師の授業を監視し、標準化をはかる。また、校長も教育委員会から評価され、評価によってボーナスなどの給与の額に反影するようなシステムになるので、多くの校長はますます表面上、書類上、問題のない学校作りを目指し、標準から少しでもはずれた教師を徹底的に普通にしようと、教師を呼び出して指導し、教師の授業案の提出を義務付け、それを添削し、可もなく不可もない授業になるようにする。こうなると、良い授業を作ろうと頑張るやる気のある教師、個性派教師のやる気や個性は、パワー半減、また半減。校長の努力の結果、みごとに個性派は没個性派、やる気は無気力へと変化し、学校は活気を失い、教育委員会はそれを学校が標準化されたと評価する。その結果、子どもたちは増々学校に対する魅力を失い、学校は増々荒廃する。

というストーリー。しかも、これ、誇張じゃなくって、かなり事実みたい。ここ2、3年、中途退職者の数が激増し、多くのやる気があった先生が辞めたらしい。昨年、ASIASの授業で関わった福嶋さんも辞めた。まともな感性の人が、あまりにも居心地の悪い空間を、東京都は作り出した、ということらしい。

これ、何とかしないと、まじヤバイです。
先生も可哀想だけど、子どもはもっと可哀想だ。
大変な時代です。