野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

猿とモルターレ

本日は、砂連尾理さんの「猿とモルターレ」を観に行きました。

2時間の公演と、終演後の2時間の座談会。計4時間、座って鑑賞させていただきましたが、特に公演では、座っていることも忘れて、色々なことを忘れて、非常に感覚的に鑑賞させていただきました。まぁ、変に頭で考えてしまう時間がないくらいに、ダンスを体感させていただきました。

作品の通奏低音のように流れる砂連尾理さんと垣尾優さんのデュオは、風のようであり、流れであり、波であり、自然であり、人々であり、未来であり、過去であり、変幻自在であり、宇宙であり、無限であり、夢幻である。伴戸千雅子と磯島未来は、それぞれ交わることのないソロのダンスの時間を生きるかのようで、彗星のようであり、輪廻であり、叫びであり、エネルギーであり、魂であり、声である。瀬尾夏美の2031年を読むテキストを通して、2017年3月11日のぼくらは、2011年3月11日だったり、2031年3月11日だったり、また、それとは全く違う時間だったりする4次元空間の中を瞬時に移動し、そこに、高校生たちが現れた。

高校生たちは、もちろん現代の高校生であることは確かなのだが、彼らは未来人のようにも見えるし、客席で沈黙しているぼくらは、もう死んでしまったのかもしれないし、これから生まれてくるのかもしれない。高校生たちもペアになる。君が猿で、ぼくがモルターレ。私がモルターレで、あなたが猿。猿は去る。モルターレは盛る。土を盛る。大地を盛る。何かが漏る。漏るのだあれ?そんな言葉の連鎖は、舞台の上でも、ぼくの心の中でもないが、動きは連動し、空気は伝播し、客席の人々のあちこちで、ハンカチを出し、涙を拭う人が現れる。客席の人々が泣いていることも、一つのドラマであり、ダンスである、と砂連尾さんが言うかどうかは別にして、それ自体が一つのオーケストラとなり、また、舞台上へとフィードバックされていくように聞こえてくる。

気がつくと、ぼくの様々な感情が揺さぶられると同時に、自分の別の体験とそれは結びついているかのような感覚にもなり、気がつくと舞台上の人々は、ぼくの物語を語っているのだ。無数の物語が積み重なり、覆い重なり、ブルーシートの下に埋もれている物語のレイヤーを、高校生と4人のダンサーと。傍観者のように舞台上手奥で、ギターや音響を扱う西川文章がラッパを吹き鳴らす。ヨハネの黙示録の7つのラッパを聴いたことはないけれども、そして、別に聖書を題材に作品をつくっているわけでないけれども、多重録音されるラッパの音色。ヨハネの黙示録のラッパは、こんな響きだったのかもしれない。

足ツボのマッサージのダンスが、3人から4人、4人から5人、そして、それが何十人へと広がっていく。こんなに美しい希望に溢れた喜びのコンタクトインプロヴィゼーションがあったのだ。タッチする。感じる。人はなぜ踊るのか、どのように踊ったら良いのか。震災の衝撃は、多くの人々の命を奪うだけでなく、多くのダンサーの動機を奪い、迷宮に陥れ、ぼくらは感動も動く喜びも、全て忘れてしまいかけた。何度も生まれ変わって、いろいろ忘れまくっている砂連尾さんは、それだけは忘れずに覚えていたのか、本能的に思い出そうとしたのか、覚えていてくれたのだ。砂連尾さんが、身体をクネクネとくねらし、身体に触り、ひょいと押したり、引っ張ったりする。腹話術のような、自分が他人であり他人が自分であるような、複雑だけれども単純なこの世界。ぼくらは、迷ってもいいし、喜んでいいし、笑っていいし、思い出していいし、忘れていいし、絶望していいし、祈っていいし、怒っていいし、泣いていい。そんなことが、真摯に溢れ出てくるように綴られた宝物のような2時間を思い出して日記を書こうと思うが、言葉にはなかなかならないので、こんな文章になってしまいます。書くとしたら、こうしか書けない。書ける。駆ける。掛ける。×と÷。「砂連尾÷野村誠」と「猿とモルターレ」も繋がっていないようで、繋がっているのだ。踊っているモルターレは、さくら苑の樋上さんかもしれないなぁ。合掌。黙祷。静寂。沈黙。

帰宅後、深夜に公演を観に行った友人から電話があり、公演を観なかった人とも電話越しに語る。その時間もいい時間だ。おやすみなさい。