野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

交差点としての音楽〜音楽と言葉について

ずいぶん長いこと、交差点としての音楽を探求してきました。それは、10代の頃の素朴な疑問から来ています。現代音楽のコンサートに行くと、現代音楽ファンの見知った人々がいて、ジャズのコンサートに行くと、それとは違ったジャズ系の客層に出会うのです。そして、ライブハウスでの即興系のライブに行くと、即興系の客層に出会い、現代美術の画廊に行くと現代美術系の方々と遭遇し、ダンス・舞踏系のイベントに参加すると、また、違った客層が存在しています。どうして、これらは交わったり、混ざったりしないのだろう?

そんな疑問から、違ったバックグラウンドの人が交差する場を設定し、価値観の違いや美意識のズレをポジティブに活用して、創造を誘発する、というのが、ぼくの創作のスタイルになっていったわけです。

現在、青森で行っている展示作品は、「音楽と美術」の交差点であり、「音楽と農業」の交差点でもある作品です。青森の森の中という場で、植物や風と対話しながら、空間を視覚的に(そして全感覚的に)構成していく作業でした。

1年前から着手し、徐々に準備中の「千住だじゃれ音楽祭」で試みようとしていることは、「音楽と文学」の交差点、「音楽とダジャレ」に取り組むことです。「ダジャレ」というのは、同音異義語が多い日本語に最適な文化だと思います。で、ぼくが「だじゃれ」に可能性を見出しているのは、意味的には無関係な物を、音だけで関係づける点です。これこそ、まさに交わらない世界を交わらせる交差点だ、と思いました。

2006年頃までは、ぼくはダジャレを軽視しておりました。単なる場の空気を和ませるツール以上の価値を、見出していませんでした。その考えを変えさせてくれたのが、2006年の「取手アートプロジェクト」でゲストプロデューサーをした経験です。ぼくが選出したアーティストの多くが、20代〜30代前半の若手だったのですが、彼らがやたらにダジャレを好み、ダジャレから作品を作るのです。最初は、なんとも思わなかったのですが、ダジャレ光線を浴びているうちに、ぼくもダジャレの世界に飛び込みたいという気になってきたのです。

宮田篤くん、山中カメラさんと考えたのが、「ニニンサッキョク」。これは、「二人三脚」の音から発想したものです。また、宮田篤くんと考案した「サイン指揮紙」は、即興アンサンブルを「サイン色紙」で指揮します。

「だじゃれ音楽」の作業は、

1)言葉から意味を剥奪して、類似する音の異義語に変化させます。 例:急場凌ぎ→テューバ凌ぎ
2)変化させた後の言葉の意味通りに、演奏します。
3)そうして出てきた音楽を、今度は音で発想して、アレンジし練り上げます。

となるわけですが、1)で意外性を生み出した後、2)、3)で、いかに音楽としての説得力を成立させていくか、という部分が重要になります。

ということで、本日、「だじゃれ音楽祭」の企画書を書き上げました。「音楽と文学」の交わりは、歌、朗読との演奏セッション、小説などを題材とした作曲などがイメージされますが、もっと直接的に、言葉と関わった作曲により、音楽の論理を超越した音楽が生み出される予感がしております。