野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

先生のいない学校で

ボパリの出身校のカンボジア王立芸術大学に行く。大学は先生がみんな出張で、授業も休講。その代わり、付属学校はやっていた。

西洋音楽コースは人数が少ない。こちらも先生が不在で、小学生くらいから中学生くらいまでの子どもが、ピアノ、ヴァイオリン、フルートなどを各自練習。

ピアノの男の子がバッハを弾き、ぼくも自作をピアノで弾き、その後、アナンが生徒のヴァイオリンを触り始めたところから即興が始まり、ぼくは左手でピアノ、右手は鍵ハモ、やぶちゃんはダルブッカ、生徒は次々に楽器で加わり、手拍子でも演奏。

ピアノの少年が、「今の曲は?」と聞くので、「Improvisation」と答えると、この言葉を知らなかったので、彼は携帯電話の英語辞書で調べた。そして、他の生徒全員に説明した。すると、アナンが英語で、説明を始める。楽譜がなくても即興はできる、先生がいなくても、即興はできる。いつでもいい、好きにやりなさい、とレクチャー。ピアノの少年がそれを通訳する。先生のいない学校で、授業をしてしまうアナン。

ダンス科は、女の子ばかり百人以上でアカペラで歌いながら踊る。このアカペラの歌が、そうとう良かった。その後に会った、演劇科の生徒は、男女が混ざっているせいか、それとも演劇だからかダンス科よりもノリがよく、物怖じせず、でも、授業は終わっちゃって見られなかったので、残念。

トゥール・スレン博物館で、ポルポト政権時代の政治犯の刑務所で、そこで行われた拷問や死体の写真などなど。かなり、ハードな展示です。そこにいた人々の顔写真の一人ひとりの表情が本当に見たことのない顔をしていました。そして、一人ひとりがすごく違う見たことのない顔をしていた。それが何よりも本当に雄弁だった。あと、拷問にあって死んだ人の死に顔の写真が、本当に安らかというか、心地よさそうな顔をしていて、それまた、印象的すぎました。

ぼく自身は、99年に老人ホームのプロジェクトを一年やって、生きることと死ぬこと、音楽のことを色々考えさせられて、2000年には、「たまごをもって家出する」という人の一生のような音楽を書き、ガムラン曲「せみ」でも、やっぱり生と死のことを自分なりに考えていて、「How Many Spinatch Amen!」という曲で、生きていることと失われていく時間を祝福するためのお葬式の音楽を書き、さらには、ドメスティック・バイオレンスの被害者にささげるレクイエム的な曲との委嘱で、「Intermezzo」も書きました。そして、死から誕生に循環して、2001年から京都女子大の児童学科の先生になって、乳幼児との音楽についての研究を3年することになるわけです。そのことと、今日の体験が、どうリンクするのか分からないのですが、すごく大切な日になったと思います。

夜は、AMRITAという色んな公演を企画している事務所に。そこのプロデューサーは、インドネシアで佐久間くんの家に泊まったこともあるらしい。世界は狭い。